日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。
2 陸軍沖縄北飛行場(読谷飛行場)[米軍] 読谷補助飛行場
3 陸軍沖縄中飛行場(嘉手納飛行場・屋良飛行場)[米軍] 嘉手納基地
4 陸軍沖縄南飛行場(仲西飛行場・城間飛行場)[米軍] 牧港補給地区
5 陸軍沖縄東飛行場(西原飛行場・小那覇飛行場)[米軍] 与那原飛行場
6 陸軍首里秘密飛行場(石嶺飛行場)
日本陸軍が西原町と中城村に建設した東飛行場「西原飛行場」は、占領後、米軍「与那原飛行場」となり、1959年に返還された。
日本陸軍(西原飛行場・小那覇飛行場)
米軍の上陸を想定しながら、大本営は沖縄守備軍に大量の飛行場建設を命令した。
1944年、日本軍は他の飛行場建設に合わせて、さらに小型特攻機用の基地として次のカ所の新規飛行場建設に着手した。
1944年5月10日 - 西原飛行場の建設開始
1944年3月、日本陸軍は小型特攻機用の飛行場として新設の飛行場建設に着手した。工事は国場組が請け負った。この接収により崎原・伊保之浜・仲伊保の集落が消滅した。
西原村への飛行場の設定は沖縄本島では最も遅く、第32軍の飛行場部隊が沖縄に来駐した4月中旬頃から用地接収に動き出した。第32軍隷下の第3飛行場中隊の一部が約39万平方㍍の農地を接収して、昭和19年(1944年)5月10日に着工した。
飛行場中隊の将校が村役場にやってきて、村長、関係区長、地主代表等の前で説明が行われた。土地売買の交渉といったものではなく、一方的に「戦争に勝つまで皆さんの土地を飛行場用地として使用するため軍が買い上げます。農作物の補償金を先に支払うから着工させてほしい。」と了解を求めてきた。地代は1等地3円、2等地2円50銭、3等地2円という金額が示されたが、売買手続も取られることもなく測量が始まり、結局、土地代は支払われぬままに、5月1日に起工式が挙行された。耕作物や施設などの物件補償金は村役場を通して現金で支払われたが、その場で郵便貯金や戦時国債購入に半強制的に勧誘された。
飛行場中隊の当初計画では、800㍍×200㍍の小型用滑走路を前後2期に分けて施工し、7月中に完成させる予定であったが、「10・10空襲」の日も飛行場はまだ完成に程遠く、戦後、米軍が進駐して飛行場を占領、ただちに拡張工事を行い、恒久的なアスファルト滑走路として建造された。
沖縄県 「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書」第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過 pp. 38-39.
「不沈空母」構想と、その実態
1942年6月のミッドウェー海戦において惨敗した日本軍は、多くの航空母艦や航空機を喪失し、以後の戦況を立て直すことができなかった。そのため大本営は戦艦空母の代わりとして南西諸島に多数の飛行場を建設し、地上から航空作戦を展開するという「不沈空母」構想をうちたてた*1。沖縄においては15カ所の飛行場建設計画が進められ、実に伊江島飛行場だけでも、滑走路6本という壮大な計画が進められた。
多くの証言が、土地の強制接収だけではなく、建設作業の徴用、モッコ等の資材と食糧の供出が厳しく、地元との軋轢を生じさせていたことを物語っている。地上戦になれば戦略的に飛行場は使用不可能になることは明白であり、第32軍は中央の航空重視の方針を疑問視していたが*2、沖縄人を総動員して命令された数の飛行場を作り続けた。そうして、いざ上陸前には、再三にわたり大本営に自壊の許可をもとめた。占領された飛行場は逆に、沖縄守備軍を攻撃するための最強の拠点になるからである。
もっとも、ほとんど機械化されていない飛行場設定隊だけでは、作業は遅々として進まず、島民をあげて飛行場建設に協力することになった。動員された島民は、沖縄本島だけでも約25,000人にのぼった。しかも隷下部隊の独立混成旅団は、沖縄へ向かう途中で米潜水艦の攻撃を受けて、その大部が海没するという悲劇が起きていた。命からがら身体一つで上陸できたのは、約4,600名のうち900名に過ぎなかった。地上戦闘部隊の島への展開は遅れに遅れた。当初の計画では昭和19年(1944年)7月までを目途としていたが、6月になっても部隊が揃わず、計画そのものの大幅な見直しを迫られることになった。陸軍中央が航空作戦を声高に唱えていても、作戦の理念と現場の進捗は全く一致していなかったのである。
西原飛行場に関しては、単に建設の「遅れ」(建前) だけではなく、第32軍は実際には「地ならしをしただけで建設を休止」していたようである。排水など土壌の問題だけではなく、以下の証言は、第32軍のなかにあった (本音) が吐露されていて興味深い。
父は動員で西原飛行場の建設に行っていた。集落から7、8人が一緒に動員され、半月ほど住み込みをして働いていた。だがしばらくして、兵隊たちが「敵はフィリピン、南洋から沖縄に向かっているから、どうせ飛行場を造っても意味がない」と言って夜に解散させたという。父たちは夜中に帰宅してきた。… 昭和19年には、青年学校からの動員などで私も壕掘りに行くようになった。小波津(現 西原町)、大見武(現与那原町)、運玉森 (現在の西原町と与那原町の境にある)などに行った。
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【本文註】実際、西原飛行場の建設は地ならしをしただけで中止になっていた。 大城将保は中止の理由を、地盤が軟弱で工事の先行きが困難視されたためだとしている (沖縄県文化振興会公文書館管理部史料編集室編「沖縄戦研究II」 沖縄県教育委員会 1999, 118頁)。
1944年10月10日 - 十・十空襲と写真解析
1944年10月10日の十・十空襲では、飛行場建設の飯場が焼かれ、焼夷弾で民家50戸が焼失、機銃掃射で1人が犠牲となった*3。
米軍は爆撃をかねて空中写真を撮った。米軍の解析班の眼は鋭い。しかも、どう攻撃するか、だけではない。本土攻略のため、占領後、どこにどのような基地を作るか、占領の後の基地建設をすでに念頭において調査している。下の10月10日付の空中写真では、日本軍が建設している西原飛行場の土壌と排水 (ドレイン) などの状態をじっくりと見定めている。
U.S. Navy: Jap airstrip under construction on Okinawa Jima, Ryukyu Retto. Field is northeast of Naha City next to Nakagusuku Wan. Good hard surfaced road to right of field, drainage ditches parallel runway flowing into bay. Sugar cane evidently was growing on field and was cleared away as construction continued. Taken during Formosa-Ryukyu Island strike by planes from USS SAN JACINTO (CVL30).
米海軍「沖縄本島で建設中の日本軍の滑走路。那覇市北東の中城湾隣に位置する。同滑走路の右側見えるのは、舗装道路。湾に向かって並行して伸びているのは、排水路。同滑走路の建設前、ここには、サトウキビが植えられていたと思われる。台湾・沖縄攻撃の際に、空母サン・ジャシント(CVL-30)から飛び立った航空機から撮影。」 撮影日: 1944年 10月 10日 沖縄県公文書館
十・十空襲時の空中写真を解析し、時の日本軍の飛行場計画の測定と進行を分析している。滑走路の長さは4,000 (1.2km) で、細かく排水路まで記入している。
Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10) :Records of the U.S. Strategic Bombing Survey 米国戦略爆撃調査団文書
また上陸前の3月23日から本格化した空爆は、十・十空襲とは比べ物にならないくらい激しいものだったという。
南飛行場の辺りはガゾリンタンクでもやられたのか巨大な火柱が吹き上げ、黒煙がもうもうと天に昇っている。それは10月10日の空襲など比ぶべくもない凄まじさであった。
1945年5月15日 - 米軍「与那原飛行場」の建設開始
1945年4月1日に沖縄島に上陸した米軍は、4月26日 、西側で陸軍南飛行場を確保する頃、東側で西原飛行場の北に到達する。第145建設大隊が5月15日から建設を開始し、3か月後の8月15日に重爆撃機用の米海軍「与那原飛行場」として完成させる。
【和訳】海軍航空機用の重爆撃機の滑走路が計画されていた与那原は、5 月 14 日になってやっと占領した。 3 か月後の8月15日、与那原飛行場が運用可能になり、滑走路長 6,500 フィート (約2km) が完成した。この滑走路は、完成時には 7,000ft (2.1km) x 150ft (約46m)となった。
Engineers of the Southwest Pacific, 1941-1945: Reports of operations, United States Army Forces in the Far East, Southwest Pacific Area, Army Forces, Pacific - Airfield and base development, p. 392.
日本軍が整地ずみであったが、米軍がそれを拡張し、3カ月で飛行場完成だ。下の写真は12月時点の空中写真。情報にみえるのが米軍が新規で建設した普天間飛行場、左側にあるのが、陸軍東飛行場を米軍が完成させた「与那原飛行場」(Yonabaru Airfield) 。
米軍は、「モッコ」や「担ぎ棒」を使わない。
NCB 20 (海軍建設大隊20) の記録から、与那原飛行場 (Yonabaru Airstrip)。
雨季ということもあるが、やはり排水は大変だった模様。
NCB 20 (海軍建設大隊20) の記録から、与那原飛行場 (Yonabaru Airstrip)。
NCB 20 (海軍建設大隊20) の記録から、与那原飛行場 (Yonabaru Airstrip)。
やはりモッコや担ぎ棒では比較にならない。
1945年7月20日、民間人収容所で敗残兵の「友軍」に襲撃され重傷をおったため、米軍によって知念半島から救急車でコザの野戦病院に運ばれた住民は、途中、東海岸のあまりの変貌に驚いた。西原から南側は海軍の飛行場、補給地区、馬天港の港湾施設、将校住宅エリアなどがずらりと立ち並び、一帯は米海軍の一大拠点となっていた。
7月19日に久手堅収容所で敗残兵に襲撃された男性の証言から
7月20日に米軍の病院に百名病院から運ばれてきた。百名からコザまで私たち家族三人だけアムブランス(患者輸送車)で運ばれたが途中窓越にみた道の周辺はすっかり変りつつあったことに驚いた。知名二区今の海野から与那原までの海岸地帯がすっかり港湾施設をつくっていた。岩をコンプレッサーで破砕する騒音、岩石の粉煙が周囲に立ちこめ、この白いゴミの中を私たちのアムブランスは通り抜けていった。海には破砕された石で突堤がつくられ佐敷の仲伊保海岸まで数ヵ所の突堤ができていた。与那原海岸は円い穴のあいた鉄板カリバートが砂の上に一面に敷きつめられてあって、軍需物資が一杯おろされていた。西原から泡瀬までの海岸平地は飛行場となり数条の滑走路が構築されていた。
ダンプカーと巨大なローラーで舗装された広大な滑走路は、返還後の土地の原状回復と補償問題をさらに複雑なものにさせ、住民を苦しめた。
現在の「陸軍東飛行場」
1959年、紆余曲折あり、与那原飛行場は使用されなくなるが、それからも日本軍が強制接収したことを理由に国有地問題、返還補償問題でもめることになる。米軍が拡大し巨大ローラーで敷き詰めたアスファルトの跡地はその後、十年近く回復させることを困難にした。
現在の地図と「西原飛行場」のおよその位置 (不確定) 。
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*1:沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書」平成16年3月 p. 24.
*2:「第32軍は地上戦備の強化にはきわめて活発であるが、それに比べ航空基地設定に対する努力が不足していると中央部では感じた。一方、第32軍首脳、特に、長参謀長及び八原高級参謀は、従来の各方面の作戦経過から航空絶対重点の方針に対して疑念をいだいており、また、中央においても地上戦備と基地整備の関係において異なった考えの指導もあ って、第32軍は差し当たっての重点を地上戦備に指向していた。第32軍首脳は比島作戦 (19年10月~12月)におけるわが航空作戦の経過を見て、航空作戦については疑念から不信感すら抱くようになった。」戦史叢書第11巻 沖縄方面陸軍作戦 p. 101.
*3:「旧軍飛行場用地問題調査」p.29.