4. 日本陸軍 沖縄南飛行場(仲西飛行場・城間飛行場)

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日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。

2     陸軍沖縄北飛行場(読谷飛行場)[米軍] 読谷補助飛行場     
3     陸軍沖縄中飛行場(嘉手納飛行場・屋良飛行場)[米軍] 嘉手納基地     
4     陸軍沖縄南飛行場(仲西飛行場・城間飛行場)[米軍] 牧港補給地区     
5     陸軍沖縄東飛行場(西原飛行場・小那覇飛行場)[米軍] 与那原飛行場 
6     陸軍首里秘密飛行場(石嶺飛行場)         

 

あの牧港にある贅沢基地「牧港補給地区」通称「キャンプ・キンザー」。

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米軍キャンプ・キンザーの洗濯施設 106億円投じ仮移設 防衛省 - 琉球新報

 

この米軍「牧港補給地区」も、もとは日本軍が建設した飛行場。

日本陸軍「沖縄南飛行場」だった。

 

1944年5月1日 - 南飛行場の建設開始

1944年3月、沖縄守備軍第32軍はさらに小型特攻機用の基地として次の3カ所で新規飛行場の建設に着手した。

  • 沖縄南飛行場 (仲西飛行場・城間飛行場)
  • 沖縄東飛行場 (西原飛行場・小那覇飛行場)
  • 首里秘密飛行場(石嶺飛行場)

また海軍も小禄飛行場のほかに、与根秘密飛行場の建設を計画した。

 

新設の仲西飛行場浦添村の城間、仲西、小湾にまたがる西海岸の平坦地に設定され、正式名称を陸軍沖縄南飛行場、又は城間飛行場などとも通称された。飛行場は張付け特攻用の小型機を発進させるのに必要な1,500㍍×200㍍規模で、南北に伸びる単線滑走路が計画された。昭和19年(1944年)5月1日に起工式を行い、途中、戦況によって一時中断状態に陥ったこともあったが、9月30日には一応の完成をみた。昭和20年(1945年)4月1日、米軍が北谷海岸に上陸し、その主力が首里城の沖縄守備軍本部に南進した。日本軍の航空作戦は不発に終わり、仲西飛行場は使用されることなく放置されたのであった。

沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書」平成16年3月

 

使用されることなく放置された南飛行場は、しかし、十・十空襲でも激しい米軍の空爆目標となった。

 

1945年1月3日に米軍が空撮した牧港の南飛行場。

拡大すると、かぎ状の特徴ある形の滑走路が見える。

 

仲西飛行場建設に関して、浦添村の村長以下全吏員をはじめとして、学徒から老人、辻遊郭の遊女に至るまで総動員しても人手が足りず、仲西の区長は罰として夜中の12時までモッコ担ぎを強要された。軍は食糧も労役もモッコも無理難題の供出を強い、軍刀を抜いて区長を脅迫するという事態もおこった*1

 

1944年に浦添に仲西飛行場が建設された。その他に小湾、宮城、屋富祖、城間が軍用地に接収された。村民も多数飛行場および陣地構築、防空壕掘りに徴用された。浦添にも師団や旅団といった日本軍が配備され、兵舎が間に合わず、学校や民家まで宿舎として利用された。また食糧の供出も米、芋、野菜などの他砂糖や鶏卵に至るまで供出命令がだされていた。 (p. 13)

翌年三月に沖縄守備軍が創設されて、軍隊が移駐するやその指揮監督のもとに一般住民 はもとより官庁、村吏員や遊廓の遊女まで動員して、その建設を急いだ。 十・十空襲のおりには、そこは攻撃目標になったので、その隣接部落に被害がでた。この飛行場では、友軍機を一度しかみていないというのが住民の 証言であり、そのまま米軍の基地化して現在に至っている。p. 410.

浦添市史・第1巻

 

これほど総動員をかけて作り上げても、ほとんど使われることなく放棄、沖縄の日本軍の飛行場建設パターンである。9月に完成したとあるが、4月の米軍の上陸までの期間ですらほとんど利用されることはなく、3月30日には滑走路の破壊を命じている*2

 

1945年4月26日 - 城間 (アイテム・ポケット) の戦い。

1945年4月1日に上陸した米軍は、1945年4月24日頃から沖縄南飛行場の手前で、沖縄戦の攻防第2線 (城間ー屋富祖ー安波茶ー仲間ー前田ー幸地) の激戦を迎える。米軍は城間をアイテム・ポケットと称し、城間の戦いは4月22日から26日に及んだ。飛行場のある牧港一帯を確保するのが5月3日頃である。

 

アイテム・ポケットの戦い

アイテム・ポケットでの死闘は、26日もくりかえされた。米軍はあらゆる方角から、このポケット陣地の心臓部めざして肉迫した。だが、それに応じて損害も大きくなる一方だった。第165連隊が攻撃を開始してまる一週間たった26日、連隊は第1号線道路の日本軍の砲火力がまだ熾烈なため、戦車も装甲車もないまま戦闘をつづけていた。攻撃、また攻撃、米軍歩兵は、一つ一つ、日本軍陣地を殲滅して、26日には、やっと城間一帯を掃討できた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 233-234頁より》

 

1945年6月1日 - 米軍「牧港飛行場」の建設開始

 

1945年5月3日、読谷・北谷の海岸から南下する米軍が、牧港一帯を確保するのが5月3日。南飛行場を確保した米軍は、それを拡張する形で「牧港飛行場」(Machinato Airfield) を建設し始める。

 

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1945年5月3日 『戦勝前祝会』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

写真右側が海岸。かぎ型の滑走路からみても、北から撮影された南飛行場であることがわかる。

米国空軍: On the west coast of Okinawa, just north of the ruins of Naha City, the 874th & 1906th Engineer Aviation Battalion started to cut an airfield out of the hilly terrain for the 7th Air Force. The sub-case had been graded and dump trucks were bringing in coral sand and rock for the base and surface of the srtip, when this photograph was taken. Construction was begun on 1 June and the completion date was the end of July 1945. Okinawa, Machinato.【和訳】 本島西海岸、廃墟那覇の北に第7空軍のための滑走路を建設する第874及び第1906工兵航空大隊。でこぼこは平らにされ、ダンプカーは土台や仕上げ用の石灰岩を運び入れる。工事は6月1日から7月末日までの予定。1945年 6月30日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

日本軍が「モッコ」の供出と「担ぎ棒」の動員に頼った飛行場建設は、米軍の工兵隊のパワーショベルとローラーにとってかわられた。写真の場所はおそらくは新しく米軍が切り崩した北側の森のあたり (現在のメイクマン浦添本店) 周辺か。

米国陸軍通信隊: Construction progress of 1166th Engr. Combat Group at the Machinato airstrip.【和訳】 牧港飛行場の第1166工兵隊による基地建設工事  牧港   1945年 7月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

完成してもほとんど「友軍機」を見かけることがなかった陸軍「仲西飛行場」は、今や米空軍「牧港飛行場」となり、完成前から爆撃機が並ぶ。

米国陸軍通信隊:  Machinato airstrip under construction by the 1166th Engr. Construction group.【和訳】 第1166工兵隊によって建設中の牧港飛行場     牧港 1945年 7月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

民間人収容所に収容した女性たちも動員し、予定通り7月31日に石灰岩で舗装した滑走路が完成する。目的は日本本土の爆撃基地である。

米国空軍 The completed runway of Machinato airfield located on the southwest part of Okinawa just north of Naha City. 7th Air Force planes are parked on the hardstands and are receiving a check up after returning from a bomb run over Kyushu. Work was still going on at several parts of the hardstands and taxiways but the runway started by the 874th EAB and 1906th EAB on June 1st, and took about seven weeks to complete this 6000 feet coral surfaced strip from the hilly scrub-covered terrain. Okinawa, Ryukyu Retto,Machinato.【和訳】 本島南西、那覇の北に完成した牧港飛行場。九州への爆撃を終え舗装駐機場で第7空軍航空機が点検を受ける。駐機場と誘導路の一部は建設途中だが、6000フィート (註1.8km) の石灰岩仕上げの滑走路は低木で覆われた丘を切り開いて第874及び第1906工兵航空大隊によって6月1日から7週間で完成した。牧港 1945年 7月31日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

その半年後の空中写真。牧港飛行場と、そして右側端には米軍が新規に建築した「普天間飛行場」の南側端が見える。

 

6月1日から7月31日までの2ヶ月間で、沖縄南飛行場がどのように拡張され米空軍の牧港飛行場になったのか、おおよその位置を重ね合わせてみてみよう。日本軍「仲西飛行場」の北側にあった丘の森を新たに切り崩し、滑走路を拡張している。

 

戦後の牧港飛行場

日本の敗戦後、飛行場の必要性が減じると、牧港飛行場は、その海岸沿いの地形を生かして物資保管所となる。翌年1946年2月時点での空中写真をよく見れば、滑走路が荒れている、のではなく、滑走路一面に、整然とコンテナ上の物資が置かれているのがわかる。

 

 

戦後、民間人収容所に収容されていた仲間・仲西・城間の住民は、1947年になってやっと帰村許可が下りる *3

 

1948年 - 土地の接収と米軍「牧港補給地区」

そして、米軍はさらにこの補給基地を拡大し、1948年、「牧港補給地区」(Machinato Service Area) となる。

1948年、2,650,000㎡の土地を強制接収し、米陸軍「牧港補給地区」 (Machinato Service Area) となる。米軍基地「天願桟橋」から米陸軍第二兵站補給団が移駐。

1965年、牧港において米軍の心理作戦を追行する米陸軍「第7心理作戦群」が発足する。

1968年から1972年の「沖縄返還」まで米国民政府がおかれる。奇しくもこの牧港補給地で、民政府と占領地や冷戦における心理作戦を担う秘密の部隊が同居するという構造が誕生する。

1978年に海兵隊に移管し、「キャンプ・キンザー」とよばれるようになるが、日米地位協定での公式名称「牧港補給地区」となっているはずである。

 


現在の日本陸軍「沖縄南飛行場」

日本軍の使われなかった日本陸軍「仲西飛行場」は、米空軍の「牧港飛行場」となり、戦後も接収によって米陸軍「牧港補給地区」として巨大化して現在に至る。

 

安倍政権が2013年に鳴り物入りで発表した、いわゆる「嘉手納以南の米軍基地返還計画」は、日本国内の名称であって、正式正式な日米合意の名称は「沖縄における在日米軍施設・区域に関する統合計画」(Consolidation Plan for Facilities and Areas in Okinawa)であり、米軍と自衛隊の統合強化 (consolidation) 計画が示された。 だれも "consolidation" を返還や縮小と解釈したりはしないはずであるが、日本では返還や縮小として報道されるイビツさがある。

 

そして、牧港補給地区に関する限り、その鳴り物入り「返還」で「返還」されたのは、以下の道 (3ha) と南側の一片 (1.7ha) である。

 

Consolidation Plan for Facilities and Areas in Okinawa PDF

 

その返還地には PCB など複数の汚染物質、つまりキンザー汚染問題も付随する。次の「牧港補給地区」の項目で検証したい。

 

日本陸軍の「南飛行場」が、実際に特攻隊基地として使用されることがなかったのは幸いであるが、上陸前から既に使用できない飛行場を、使用できないのではないかと知りつつ、大本営の命令だからと、地元住民をしぼりあげ酷使し作らせ、放置していく、このような日本独特の官僚主義権威主義は、戦後も変わっていないのではないか。

 

❒ ❒ ❒ ❒ ❒ ❒ ❒ ❒ ❒ ❒ 

*1:浦添市史・第1巻 p. 129

*2:沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書」平成16年3月 p. 34.

*3:浦添市史・第1巻 p. 354.