3. 日本陸軍 沖縄中飛行場(嘉手納飛行場)

日本陸軍 沖縄中飛行場(嘉手納飛行場) 

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2     陸軍沖縄北飛行場(読谷飛行場)[米軍] 読谷補助飛行場     
3     陸軍沖縄中飛行場(嘉手納飛行場・屋良飛行場)[米軍] 嘉手納基地     
4     陸軍沖縄南飛行場(仲西飛行場・城間飛行場)[米軍] 牧港補給地区     
5     陸軍沖縄東飛行場(西原飛行場・小那覇飛行場)[米軍] 与那原飛行場 
6     陸軍首里秘密飛行場(石嶺飛行場)         

 

1944年5月 - 沖縄中飛行場の建設

現在、米軍「嘉手納基地」は、もともと日本軍が土地を強制接収し建設した「陸軍中飛行場」だった。

 

1944年4月頃から、北谷村、屋良、嘉手納、東、野里、野国、国直にまたがる広大な土地、約473,170㎡ を接収し、5月に着工、事情説明もないまま強制的に接収され、徴用労務者を動員して建設が急ピッチで進められ、9月には一応の完成を見た。

 

下の図右側は、その年11月の第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」の、北と南の飛行場図面。そして実際に翌年の1月に撮影された飛行場の空中写真。

 

1944年10月10日 - 十・十空襲と偵察

1944年10月10日の十・十空襲の真の目的は、沖縄戦の戦略地図作成のために必要な空中写真を撮ることだった。以下の地図は米陸軍地図局が、その10月10日に撮影した写真をもとに陸軍が作成した地図、と下のキャプションに記載されている。

 

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Ryukyu Islands airfields, Records of the U.S. Strategic Bombing Survey = 米国戦略爆撃調査団文書

 

米陸軍の公刊戦史はこう記している。

アメリカの諜報機関によって作成されたターゲットマップは、島の地形と開発された施設について知られているすべてを表しています。この地図、縮尺1:25,000は、1944年9月29日と10月10日に取得された航空写真に基づいており、1945年3月1日頃に配布されました。描写、および首里の北の高地の部分を含む地図の特定の部分は、地形の詳細が不十分であるか、まったくありませんでした。島の追加の写真報道は、1945年1月3日と22日、2月28日、および3月1日に取得されました。1月22日のそれは、予定された上陸着陸ビーチエリア (註、北谷・読谷の海岸) にとって優れていました。航空写真を補足するために、❻ 真珠湾から潜水艦が送られ、沖縄のすべてのビーチの写真を撮りました。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 1]

 

下の空中写真は1月3日に撮影された空中写真。

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1945年4月1日 - Love Day (愛の日)

1945年4月1日、米軍は「その日」を Love-Day と名付けた。(米軍が沖縄島上陸を指す L-Day の意味とは、Landing ではなく、実際には Love 。)

 

海兵隊の戦史記録はこのように記している。

渡具知ビーチ(北はIIIACの海兵隊、南は陸軍第24軍団の兵士)に対する4分割攻撃。一方、独立した海軍機動部隊を持つ第2海兵師団は、沖縄の南東海岸にある港川ビーチの反対側で、テニアン島沖で成功した水陸両用フェイントを模写するよう努める。愛の日 (Love Day)硫黄島で計画された「D-Day」との計画の混乱を避けるために既存の音声アルファベットから選択)は1945年4月1日です。この明らかなアイロニー (皮肉) についてあえて何か言う人はほとんどいませんでした。4月1日は、エイプリル・フールであり、キリスト教の復活祭であるが、そのどちらが優先的だろうか?

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

 

Love Day (愛の日)、

 April Fool (嘘の日)、

  Easter (キリストの復活祭)、

そして沖縄島の地獄の章が始まる。

 

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Sunrise over ships of the US Task Force off Okinawa in the Ryukyus L-day. Taken from the USS NEVADA (BB-36).

米機動部隊の上に昇る日の出。上陸日、沖縄近海にて。戦艦ネバダ(BB-36)から撮影。1945年4月1日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

 

1945年4月 - 米軍「嘉手納飛行場

さて、1945年4月1日の Love Day から、米軍が日本陸軍「中飛行場」を半年そこらでどのように拡大したのかみてみよう。

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1945年6月 - 新滑走路の完成

上陸した米軍が日本軍の沖縄中飛行場をどのように拡張して巨大な基地にしたのかみてみよう。青色のラインがおよその中飛行場の滑走路。戦線が南部に南下する1945年6月、2,250mの滑走路が完成し、B-29等大型爆撃機の主力基地となる*1

 

 

現在の嘉手納基地

そして現在の「嘉手納基地」を、78年前の米軍「嘉手納基地」の2本の滑走路(オレンジ枠)と比較してみると、おおよそのところ、これほど拡張されている。日本軍の中飛行場のおよその大きさは青の枠で記している。

 

 

1957年12月5日、A滑走路(北側)を拡張。
1967年5月、3,250mの滑走路2本が完成。
1967年10月5日、B滑走路(南側)を拡張*2

 

こうしてみると、朝鮮戦争ベトナム戦争の時代に滑走路が拡張されていたことがわかる。

 

しかも1947年から1970年まで嘉手納基地を上空からとらえた国土地理院所蔵の空中写真は、今も黒塗りのまま、他の、沖縄の核兵器があるとおぼしき弾薬庫やミサイルサイトなみの機密だ。

 

 

なぜ嘉手納基地は 1947年から1970年まで黒塗りなのか。その理由を考えれば、嘉手納基地がここにこのままあってはいけない理由がわかるだろう。

 

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*1:沖縄県「米軍基地環境カルテ - 嘉手納基地」

*2:沖縄県「米軍基地環境カルテ - 嘉手納基地」