陸軍 徳之島北飛行場「浅間飛行場」
日本軍が建設した飛行場
16 海軍喜界島飛行場
17 陸軍徳之島北飛行場
18 陸軍徳之島南飛行場
1944年11月の日本海軍による記録では、徳之島北飛行場 (浅間飛行場) は「徳之島第一飛行場」と記されている。
米軍が沖縄で鹵獲した日本軍のファイルを翻訳したもの。
Digest of Japanese Air Bases Special Translation Number 65 (1945-5-12)
これらの図面を米軍が撮影した沖縄戦当時の空中写真に落とし込むと・・・ 、おおよそ現在の「平和特攻記念碑」から平和大通りにかけて滑走路が建設されていたことがわかる。海岸沿いにあるのが現在の徳之島空港。
徳之島北飛行場の建設
昭和18年に2200名の島民が徴用され、建設工事が行われた。戦争末期には神風特攻隊の前線基地としての使用された。浅間集落南側の畑地一帯を南北に貫くように通る平和と通りが、徳之島陸軍浅間飛行場滑走路である。昭和18年10月9日に航空本部熊本支所長などが浅間一帯を視察し、同年10月12日には鹿児島県より派遣された技師によって測量が行われた。測量が終わると土地買収が始まり、宅地、畑地などの約79万㎡もの土地が買収された。同年11月28日には、4ヶ町村町に2280人の人夫供出の命が下り、12月6日~8日に人夫出動命令が下されると、小学校卒業の男女から満60歳までの人夫を動員し、飛行場建設が始まった。昭和19年1月からは、沖永良部、与論両島より300名余りの労務者が応援にきて、5月には、ほぼ飛行場が完成し、6月には飛行中隊本部、事務室、整備室などが設置された。徳之島陸軍浅間飛行場は、滑走路、補助滑走路、誘導路、掩体壕、中隊本部壕跡などが残っている。
特攻の前線基地としての浅間飛行場
本飛行場跡は鹿児島知覧の万世飛行場の中継基地であったため、知覧を飛び立った特攻機が中継して、ここから沖縄へと前進している。
旧陸軍浅間飛行場滑走路跡(現・平和通り)
建設工事中から空爆に見舞われており、昭和19年10月の1回目の空襲によって格納機など27機が焼失し、基地としての機能の大部分は失われ、中継基地としての機能のみとなった。その後も空襲は続き、夜間に補修工事を行い翌日の出撃に間に合わせた。徳之島陸軍浅間飛行場からは、特攻機が昭和20年3月から5月にかけて14回(43機)沖縄の海へと出撃している。
旧滑走路の先には「特攻平和慰霊碑」がある。そばにある看板の日本語も不自然だが、特攻を仏教用語の「散華」や「ロマンと情熱」という言葉で表現するのも無責任である。誰が設置したのか記載もない。
徳之島は、特攻の中継基地としてだけではなく、不時着や故障などによる生還者が帰還する拠点でもあった。
45年4月、米軍が沖縄本島に上陸したのを受け、飛行兵らは特攻隊の一員として知覧などを出撃。米軍艦艇などを攻撃する作戦で南方へと前進したが、奄美群島の上空で米軍戦闘機などに攻撃されて機体を損傷、爆弾を海に捨て、浅間飛行場などに不時着するのも少なくなかった。機体トラブルなどで特攻を果たせず、帰ってきた隊員らは福岡県の第6航空軍司令部にある寮 (ブログ註・振武寮) に移送された。そこは特攻生還者を収容する特別な施設だった。上官らは、生還者の収容施設である寮に隔離軟禁。生還したことを厳しく非難し、竹刀などで殴打した。戦勢が傾く日本軍の考えは「一億玉砕」であり、「一億特攻」。生きて帰ることは許されなかった。「そんなに命が惜しいのか。死んだ軍神に恥ずかしくないのか」―。怒声を浴びせ、軍人勅諭の書き写しを延々と命じた。
3月31日、徳之島から沖縄へ出撃した誠第39飛行隊の牧甫は故障とグラマンの追撃のため奄美大島沖で不時着、振武寮に収容される。再特攻を命じられた牧は、振武寮に同じく収容されている第43振武隊の今井から、「沖縄ではなく、第六航空軍司令部に突っ込んでほしい。 俺は菅原軍司令官以下参謀連中を全員一室に集めておくから、そこに突っ込んでくれ。俺も死ぬ」と伝えられる((加藤拓「沖縄陸軍特攻における「生」への一考察 : 福岡・振武寮の問題を中心に」(2007-11-30)))。
9月21日米軍の上陸
特攻機の発信基地となっていた徳之島は、連日のように米軍による爆撃が行われた。
米国海軍: Airfield on Tokunoshima Island in Ryukyus strafed by fighters from US Task Force. Taken by plane from USS YORKTOWN (CV-10). Our fighters strafed this field in the neutralization strikes against Amami Gunto. The eleven planes on the field appeared to be wrecked.
【和訳】 機動部隊の戦闘機から機関銃掃射をうけた、徳之島の飛行場。空母ヨークタウン(CV-10)の艦載機から撮影。機動部隊の戦闘機による奄美群島への制圧攻撃。同飛行場に駐機していた航空機11機の破壊が確認された。撮影日時不明
9月21日、奄美守備隊の武装解除の事前打ち合せのため、米第10軍司令官代理のカンドン大佐以下が来島した。翌22日には第一機動群集団指揮官エドワード大佐以下の部隊が上陸した。23日・24日の両日徳之島の平土野海岸には、各隊により兵器類が一括集積され、大きい物はガスによって切断され、弾薬類と共に米軍の上陸用舟艇によって、平土野沖の海中に投棄された。
0:00~4:10 まで、1945年9月24日に米軍が撮影した徳之島飛行場。
00:00 徳之島飛行場 (1945年9月24日米軍撮影)
慰安所につれてこられていた女性たちは、敗戦後、沖縄島の収容所に移送されている。
奄美諸島の中で唯一、朝鮮人「慰安婦」の存在が確認できるのが徳之島である。朝鮮人「慰安婦」は馬鞍岳南麓のバラック小屋と、山集落海岸の民家にいたという。また日本人「慰安婦」もおり、天下茶屋を境に西側に日本人「慰安婦」の慰安所が、東側に朝鮮人「慰安婦」の慰安所が設置されたともいわれる。このうち山集落の慰安所は、湊川と内千川に店があった。兵隊相手に商売をして、「慰安婦」の人数は10数人いた。日曜日は兵隊が行列を作っており、慰安所には軍属でなく親方(民間人ということか)がついていたという。
徳之島の毒ガス
米軍が徳之島の日本軍弾薬庫に毒ガス防護装備等を見つける。
米国陸軍通信隊: Japanese personnel gas protective cape,Tokuno Shima. / 【和訳】日本人の毒ガス防護頭巾。徳之島。1945年9月24日
米国陸軍通信隊: Impermeable clothing claimed to be 100 percent protection against all types of gases, Tokuno Shima. 【和訳】あらゆる毒ガスを100%防ぐと謳う不浸透性衣服。徳之島。1945年9月24日
こうした化学兵器はどのように処理されたのだろうか。
米国陸軍通信隊: Japanese soldiers loading ammunition on an American amphibious vessel for dumping into ocean, Tokuno Shima. / 【和訳】海に投棄するために米軍の水陸両用船に弾薬を積み込む日本兵たち。徳之島。1945年9月24日
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参考:
徳之島守備隊戦記(1)~(14) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦