- 海軍 宮古島飛行場 (平良飛行場)
- 1945年 - 沖縄戦と平良飛行場
- 1945年8月26日 - 米軍の宮古進駐
- 1973年2月15日 - 米軍基地「宮古島ヴォルタック施設」の返還
- 現在の「宮古空港」と「下地島空港」
海軍 宮古島飛行場 (平良飛行場)
日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。そのうち三カ所の飛行場が宮古島にあった。
海軍「宮古島飛行場」(平良飛行場) は、現在の宮古空港の場所に建設された。
1943年 - 海軍「平良飛行場」の建設
1943年9月から軍による土地の強制接収が始まる。
昭和18年5月頃から用地接収が始まり、地主への話し合いもなく、一方的な軍命令による接収であった。用地内の建築物や耕作物などの物件に対する補償はあったが、土地そのものについては売買契約もなく地代の支払いもなかったママ。物件補償も一部現金で支払われたが、ほとんどは強制貯金に回された。
沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書」平成16年3月, p. 39.
詐欺のように人々から土地を奪い、いまだに国有地に。
生前、父はよく海軍飛行場用地にとられてしまった七原の土地代について、「入口から入って来て金を渡し、出ていくとき金をとりあげて出口から出ていく」ようなやり方だったと言っていました。地料は一応計算して渡しはしたが、その場でそっくり強制貯金をさせられ、一銭も手にはわたっていない。いわば土地は強制的にただどりされたとも言えます。それも国をあげての戦争ということだから仕方がなかったとしても、いまはもう戦争は終ったのだから、その代償というか、そういったものを国は考えてくれてもいいのではないか。日本はGNP世界第二位といわれ、世界でも大きな国になったが、その裏にはこのような大きな悲劇があるということをかえりみようともしないことは問題だと思います。一 戦争が終って必要がなくなればいつでも土地は返すとはっきり約束したと言って、いまも軍との約束をおぼえている人もいるのに、こんなにはっきりしていることさえ解決しようとせずに、何がGNP世界二位かと言いたくなる。政府はもっと考えてもいいのではないですか。
軍飛行場の設営は、1943(昭和18)年9月から、平良町東部の三部落七原、屋原、越地の所有者 255人、約175 ㌶の農耕地の強制接収を開始し、翌年の5月までに建設が行われている。海軍飛行場は、現在の宮古空港滑走路の原型ともなった飛行場である。
海軍飛行場の主滑走路は、北東から南西へ 1400m、風向も配慮した副滑走路は、東西1200m、南北1300m の 2 本で、誘導路は延長 6km にもおよぶ。山口直美、久貝弥嗣「戦史資料にみる海軍飛行場と陸軍中飛行場の利用」
1944年11月、海軍作成の図面
第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」(昭和19・11)
宮古島には、連日のように激しい空爆が繰り返される。最初は飛行場を中心に、そしてやがて町中のの無差別爆撃となっていった。
1944年12月23日に米軍が空中写真から制作した爆撃用資料。
Records of the U.S. Strategic Bombing Survey = 米国戦略爆撃調査団文書
1945年 - 沖縄戦と平良飛行場
日本軍 - 特攻隊の出撃
作戦変更の都合で宮古の飛行場は本格的な航空作戦に利用されることなく終戦を迎えた。海軍飛行場からは、第3龍虎隊の7人が特攻隊として出撃し犠牲となっている。
昭和20年7月29日、三村弘海軍上等兵以下7名が、海軍飛行場より出撃している。出撃した7機の内2機は故障で引き返し、翌日再度出撃している。
連合軍 - 宮古島占領計画の変更
4月下旬まで、米軍は日本攻略の基地拠点として宮古島の占領と基地化を計画していた。しかしその計画は4月1日の読谷飛行場や嘉手納飛行場の占領以降、沖縄島の基地化の有効性が示されたため、宮古島上陸計画は4月26日に中止された。
【日本語訳】(米軍) アイスバーグ作戦における当初の見積もりでは、沖大東島、久米島、宮古島、喜界島、徳之島の占領が想定されていた。その後の偵察によると、宮古島と喜界島だけが大規模な基地開発の実行可能性があると示された。そのため宮古島と喜界島の占領のみが2月28日以降のフェーズ III 計画の目標として保持された。さらに沖縄群島の陣地占領により、書記の航空偵察が示していたよりも沖縄島の基地建設の効力が高いことが明らかになり、フェーズ III 計画 (註・宮古島と喜界島の占領と基地化) は 4 月下旬に中止された。
HyperWar: USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC footnotes 46-47
宮古島ではなく、沖縄島と伊江島に22の滑走路を建設することに。
沖縄島や伊江島の基地工事が順調にいったのは、第3期作戦として計画されていた宮古作戦を放棄する決断を下したからにほかならない。4月9日に、第10軍はニミッツ提督に、沖縄の地形を詳細に調べたところ、長距離(VLR)爆撃機用基地に開発できる飛行場があることがわかった、と報告、…宮古作戦は4月26日に中止された。…沖縄島に18、伊江島に4つの滑走路をつくることになった。…沖縄での飛行場建設はB29用、伊江島は主に長距離飛行機戦闘護衛機用として、行われることになった。
平良飛行場への激しい爆撃
米軍が記録した平良飛行場の空港写真
先島を攻撃する英国海軍太平洋艦隊
宮古島・石垣島の攻略は英国海軍太平洋艦隊が主導した。以下は英国海軍記録から。
先島群島群の中で最大の 2 つの島である宮古島と石垣島が、ICEBERG 作戦中の英国太平洋艦隊の標的となった平面図。各島には、宮古島の野原、平良、洲鎌、石垣島の石垣、宮良、へぎなの 3 つの飛行場がありました。
宮古島の平良飛行場、その滑走路は毎日爆撃を受け、クレーターができて使用できなくなっています。
第857飛行隊の攻撃を受ける平良飛行場。
MaritimeQuest - Frank Arthur Stockwell, R.N. Collection Page 9
昭和 20 年 2 月以降、宮古島への空襲は定期的になり、海軍飛行場の滑走路は連日空爆を受け、その為に発生した弾薬跡の埋め戻し作業が連日のように行われている。
山口直美、久貝弥嗣「戦史資料にみる海軍飛行場と陸軍中飛行場の利用」
昼間の空襲で飛行場の滑走路にできた大きな爆弾の穴を埋める作業が夜間行なわれるのです。そのうち夜間も空襲が始まり、一日で二十か所も大きな深い穴をあけてあった。飛行機が飛べる様に石垣をこわして来てたりない分は、ドラム罐を運んできて、その弾跡の穴うめ作業をするのです。徹夜の作業をするため、夜寝る時間はほとんどなかったのですが、昼は隊を抜け出し、家族のための食糧さがしをしました。空襲下の食糧探しはそれこそ命がけです。
NAVY BLUE FIGHTER PILOT — Episode Three — Vintage Wings of Canada
1945年8月26日 - 米軍の宮古進駐
宮古と八重山では、停戦後に米軍が占領・進駐したため、軍政も沖縄島とは異なるかたちで移行した。戦後の「平良飛行場」は米空軍の管理下におかれ、「ミヤコジマ・インターナショナル・エアポート」となった*2。
終戦後の8月26日、アメリカ軍が上陸し宮古島の進駐が始まります。キャノン准将の閲兵を受ける宮古島守備の海軍将兵たち。宮古島にはおよそ2万8700人(の日本軍)が守備に当たりましたが、2600人余りが戦死、そのほとんどがマラリアや栄養失調でした。… この後、宮古島は12月8日にアメリカ海兵隊が軍政を施行しますが、これは沖縄本島、八重山と分割された統治で、互いの往来が厳しく制限されました。
1956年6月、沖縄戦の終結から11年後、平良飛行場で民間機の就航が始まる。滑走路はいつの間にか一本になっている。
1973年2月15日 - 米軍基地「宮古島ヴォルタック施設」の返還
1972年の沖縄施政権の移行時に、宮古島には3カ所の米軍基地があった。そのうちの一つは、宮古空港に付随する米軍の通信施設「宮古島ボルタック施設」で、面積は153,800 ㎡。1973年2月15日に返還され、通信施設は運輸省に移管された。
現在の「宮古VOR/DME局」は日本の運輸省が管理している。
現在の「宮古空港」と「下地島空港」
現在、宮古島には空港が二つある。ひとつは海軍「平良飛行場」の跡地にある「宮古空港」、もう一つは下地島に下地島空港。
下地島空港と「屋良覚書」
もう一か所の「下地島空港」に関しては、日本の本土でパイロット訓練養成のための空港建設計画がとん挫した末、1969年、米軍統治下にある下地島に誘致されたものである。宮古島、伊良部島、下地島の住民、および琉球政府は軍事転用を恐れこれに強く抵抗し、宮古郡民大会で誘致反対が決議された*3。1971年、下地空港は軍事転用しないという「屋良覚書」の合意のもとで、1972年「下地島訓練飛行場」の建設が開始された。
しかし現在、防衛力強化を理由に、自衛隊、米軍、双方が下地島空港の利用を要請する圧力が強まっている。
またこうした沖縄関連記事に毎回表示されるニュースの「コメント欄」*4 は、軍事的負担を少数派に担わせる点において利害が一致する多数派が、多数派であることに立脚して少数派を批判する「数の暴力」の現場、沖縄への偏見と憎悪を助長する現場ともなっている。
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