「沖縄返還」1972年当時の沖縄島の米軍基地と、現在の沖縄島の米軍基地
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左: 1972年当時の沖縄島の米軍基地*1
右: 現在の沖縄島の米軍基地*2
日本はどのように沖縄と向き合ってきたのか
1972年5月15日、沖縄の施政権が米軍から日本政府に移行する。
その「沖縄返還」とはいったい日本にとって何を意味したのだろうか。
その後の50年は日本にとってどんな年月だったのか。
それを考えるためにまず理解しておきたいのが
沖縄不在のまま日米が締結した沖縄返還協定*3というものである。
こうした交渉と合意は、まったく沖縄抜きでおこなわれた。
沖縄抜きにした「沖縄返還協定」とは、いったいどういう「返還」なのだろうか。
建議書は1971年秋、沖縄不在のまま日米間の返還交渉が進んでいることを危ぶんだ琉球政府が職員や学識経験者を動員して、復帰にあたっての基地や振興開発のあり方をはじめ、幅広い県民の要望をまとめたものだ。
しかし、それは「全く弊履 (へいり)*5の様に踏みにじられ」*6た。
怒号が飛び交い、大混乱の国会。50年前のきょう、アメリカ軍基地の固定化を前提とした「沖縄返還協定」が強行採決されました。
それは、琉球政府の屋良朝苗主席が、「沖縄県民の声」を国会に届けるため、羽田空港に降り立つ直前の出来事でした。屋良主席が手にしていたのは、沖縄が望む復帰の形をしたためた「建議書」です。
1972年時点の沖縄の米軍基地リスト
米軍は「沖縄戦」「民間人収容所」や「銃剣とブルトーザー」の歴史を通して沖縄におびただしい数の米軍基地を建設した。それらは、県民の切なる願いと抵抗運動にもかかわらず存続するのであるが、
❶ 1972年時点で沖縄にどれほどの米軍基地があったのか、そして
❷ それらの米軍基地は「沖縄返還協定」でどのように変わったのか、変わらなかったのか、
を確認する作業は、日本がどのように沖縄と向き合ってきたのか、その50年を考えるうえで不可欠のものである。
今回、1972年の「沖縄返還協定」にリスト化された125の米軍基地の記憶をひとつひとつ再確認しながら、日本がどのように沖縄と向き合ってきたのかをあぶりだしていきたいと思う。
1972年5月15日時点での沖縄の米軍基地
A表 - 日本政府が米国に提供する基地のリスト
沖縄返還協定「A表」*7 とは、1972年5月の時点で沖縄に存在する米軍基地を、日米地位協定のもと、名称を変更するなどして統合し、日本政府が新たに米国に「提供」する沖縄の基地、と決定したもの。沖縄不在で日米間で取り決められたため、基地のリスティングの仕方に不可解・不明な点も多い*8。『了解覚書』*9には基地88か所があげられているが、3. 川田訓練場と 8. 瀬嵩訓練場はリストから消え、また施設番号をつけられ米軍に提供された那覇海軍航空施設 (FAC6089) や伊波城観光ホテル (FAC6090) はそこに含まれていない*10。
3. 川田訓練場 (施設番号なし)
FAC6004 奥間レスト・センター
FAC6006 八重岳通信所
FAC6007 慶佐次通信所
8. 瀬嵩訓練場 (施設番号なし)
FAC6009 キャンプ・シュワブ
FAC6010 辺野古弾薬庫
FAC6011 キャンプ・ハンセン
FAC6012 久志訓練場
FAC6013 恩納通信所
FAC6014 キャンプ・ハーディ
FAC6015 恩納サイト
FAC6016 屋嘉訓練場
FAC6017 ギンバル訓練場
FAC6018 屋嘉レスト・センター
FAC6019 金武レッド・ビーチ訓練場
FAC6020 金武ブルー・ビーチ訓練場
FAC6021 ボロー・ポイント射撃場/瀬名波通信施設
FAC6022 嘉手納弾薬庫地区
FAC6023 知花サイト
FAC6024 石川陸軍補助施設
FAC6025 読谷陸軍補助施設
FAC6026 楚辺通信所
FAC6028 天願桟橋
FAC6029 キャンプ・コートニー
FAC6030 天願通信所
FAC6031 キャンプ・マクトリアス
FAC6032 キャンプ・シールズ
FAC6033 キャンプ・ヘーグ
FAC6034 平良川通信所
FAC6035 波平陸軍補助施設
FAC6036 トリイ通信施設
FAC6038 嘉手納住宅地区
FAC6039 砂辺倉庫
FAC6040 砂辺陸軍補助施設
FAC6041 カシジ陸軍補助施設
FAC6042 コザ通信所
FAC6043 キャンプ桑江
FAC6044 キャンプ瑞慶覧
FAC6045 瑞慶覧通信所
FAC6046 泡瀬通信施設
FAC6047 西原陸軍補助施設
FAC6048 ホワイト・ビーチ地区
FAC6049 泡瀬倉庫地区
FAC6050 久場崎学校地区
FAC6051 普天間飛行場
FAC6052 キャンプ・マーシー
FAC6053 キャンプ・ブーン
FAC6054 牧港倉庫
FAC6055 牧港サービス事務所
FAC6056 牧港補給地区
FAC6057 牧港補給地区補助施設
FAC6058 牧港調達事務所
FAC6059 浦添倉庫
FAC6060 工兵隊事務所
FAC6061 牧港住宅地区
FAC6062 那覇冷凍倉庫
FAC6063 ハーバービュー・クラブ
FAC6065 那覇サービス・センター
FAC6066 那覇空軍・海軍補助施設
FAC6267 那覇サイト
FAC6268 知念第一サイト
FAC6269 知念第二サイト
FAC6070 新里通信所
FAC6071 知念補給地区
FAC6072 与座岳航空通信施設
FAC6073 与座岳サイト
FAC6074 与座岳陸軍補助施設
FAC6075 南部弾薬庫
FAC6077 鳥島射爆撃場
FAC6078 出砂島射爆撃場
FAC6279 久米島航空通信施設
FAC6080 久米島射爆撃場
FAC6081 浮原島訓練場
FAC6082 津堅島訓練場
FAC6083 前島訓練場
FAC6084 黄尾嶼射爆撃場
FAC6085 赤尾嶼射爆撃場
FAC6086 宮古島ボルタック施設
FAC6087 宮古島航空通信施設
FAC6088 沖大東島射爆撃場
防衛省『5. 了解覚書』A表に記載なしだが A表 として提供された米軍基地
FAC6089 那覇海軍航空施設
FAC6090 伊波城観光ホテル
B 表 - 「返還」という名の、自衛隊等への移管
沖縄返還協定「B表」とは「次の施設及び区域は、沖縄の復帰の後、備考欄に記載するところに従つて日本国に返還される」と定義されているが*11、返還されたのではなく、実際にはそのまま自衛隊やその他の国の施設としてスライドされた基地。このリストだけではなく、その後も多くの沖縄の米軍基地が自衛隊に移されたことに注意。
1. 恩納ポイント陸軍補助施
2. 知花陸軍補助施設
3. 西原第2陸軍補助施設
4. 那覇陸軍補助施設
5. 知念第1陸軍補助施設
6. 知念第2陸軍補助施設
7. 与座岳航空通信施設
8. 与座岳第1陸軍補助施設
9. 与座岳第2陸軍補助施設 (サイトA)
10. 久米島航空通信施設
11. 宮古島ヴォルタック施設
12. 宮古島航空通信施設
C 表 - 米軍の使用が「解除」される箇所
沖縄返還協定「C表」*12 とは、1972年5月15日の段階で米軍の使用が「解除」される地域*13。
1 那覇空港
2 三和NDB施設
3 那覇空軍・海軍補助施設のうち日本国政府が使用する部分(A表第66号)
4 那覇第2貯油施設(与儀貯油施設)
5 那覇ホイール地区
6 ホワイト・ビーチ地区のうち日本国政府が使用する部分(A表第48号)
7 奥訓練場
8 瀬嵩第2訓練場
9 本部採石所
10 本部補助飛行場
11 石川ビーチ
12 渡嘉敷陸軍補助施設
13 羽地陸軍補助施設
14 嘉手納第4サイト
15 大木サイト
16 赤道サイト
17 久場サイト
18 コザ憲兵隊支署
19 コザ憲兵隊詰所
20 泡瀬防空待避所
22 楚辺方向探知西サイト
23 宮古島ロランA送信所
24 キャンプ・シュワブ訓練場のうち約104万3,100平方メートル(A表第9号)
25 キャンプ・ハンセンのうち約39万600平方メートル(A表第11号)
26 キャンプ・ハンセン訓練場のうち約17万7,400平方メートル(A表第11号)
27 東恩納弾薬庫のうち約94万7,100平方メートル(A表第22号)
28 キャンプ・コートニーのうち約39万6,200平方メートル(A表第29号)
29 キャンプ・シールズのうち約60万3,000平方メートル(A表第32号)
30 キャンプ・へーグのうち約5万3,600平方メートル(A表第33号)
31 キャンプ久場崎のうち約6万4,700平方メートル(A表第50号)
32 与座岳航空通信施設のうち約7万2,600平方メートル(A表第72号)
33 久米島航空通信施設のうち約4万4,500平方メートル(A表第79号)
34 宮古島航空通信施設のうち約9万7,700平方メートル(A表第87号)
(注) 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定第6条の規定によつて使用を解除される他の設備及び用地もある。
その他
上の「沖縄返還協定」にリスト化された米軍基地以外に、リストに入っておらず、1972年5月15日前後で返還された主な基地など*14を下に上げ考察する。(今後追加予定)
1. 与那原飛行場
2. 上本部飛行場
3. VOA通信所
A表のごまかし
・A表 (継続使用の基地リスト) 88カ所の数字は、まとめて少なく。また米軍基地ではない地所が何か所も米軍基地としてリストに挙げられている。
了解覚書A票では、日本政府が米軍に提供する在沖米軍基地の数を少なく見せるため、軍施設のおおがかりな名称統合を行っている。
例えば・・・、
日米政府の「核抜き・本土並み」というキャッチ・コピーとは裏腹に、巨大基地を統合し、さらには、本来は米軍基地ではありえない場所が、何か所も米軍基地として登録される。
B表のごまかし
・B表 (自衛隊に移管される米軍基地リスト) 12カ所も、トリック
軍からもう一つの軍へと移管される基地は、もちろん返還ではない。戻ってくるのは沖縄ではない、強制接収のあげく沖縄を捨て石にした日本軍が、27年後に再びつるりと沖縄に戻ってくるというわけである。
沖縄戦を経験した多くの県民が不安を口にしたし*15、実際その不安は昨今現実のものとなっているわけであるが。
政府はこの時、自衛隊に移管される基地を「返還される基地リスト」C表などにいれることで、数を少なく見せている。
例えば …
- C-3 那覇空軍・海軍補助施設のうち日本国政府が使用する部分(A表第66号) 空自那覇基地へ
- C-5 那覇ホイール地区 陸自那覇駐屯地へ
- C-6 ホワイト・ビーチ地区のうち日本国政府が使用する部分(A表第48号) 海自沖縄基地隊へ
返還されるわけではない、B表に入れるべきもの、なぜこれらがC表にあるのか根拠不明である。
C表のごまかし
・C表 (返還される基地リスト) 34カ所の、盛りに盛った疑似リスト
返還協定のモットー「核抜き本土なみ」をすこしでも印象付けするため、C票の「復帰までに返還される基地数」を盛るため、日米は盛りに盛った疑似リストを作った。
いずれも基地とはいえない間借り物件をリスト化し、「返還される基地」宣言。
リスト十九の「コザ憲兵隊詰所」は、コザ市の中心街のある商店の二階。リスト二十一の「那覇憲兵隊詰所」はアパートの二階。こんな借間の賃借が日米外交の協定文書にでてくるのである。しかも、協定の日本語文は「憲兵隊詰所」とあるが、実際は軍の諜報機関が使用している所。
中央公論 第86巻 (1971年)
実際に変換リストを辿っていくと、リスト21番の「那覇憲兵隊詰所 (587平方メートル) 」は那覇市鏡原にある民間アパートの二階の一室。CID (陸軍捜査機関) が一年前から借りているという。また、リスト19番の「コザ憲兵隊詰所 (床面積112平方メートル)」は、コザ市照屋のメーンストリートに面した某ペイント店の二階。ここも CID が使用しているといい、窓は全部締め切られ、外からは人影も見えない。さらにリスト18番の「コザ憲兵隊支署(床面積47平方メートル)」は、コザ市照屋大通りに面した貸家。なかには三人の米兵が談笑していた。この地域は通称黒人外。米兵が暴れたりなど一時的に拘置する場所という。家主の大城賢紀さんの話では、四年前から DE (陸軍工兵隊) と契約しているが、「来年7月からは自動的に自衛隊が借りるといっています」という。この三つの施設は、基地と全く関係なく、民間の貸し間である」(沖縄タイムス 7月6日)
牧瀬恒二『日本史の再發見としての沖繩の歴史 - 第 3 巻、第 3 部』 (1970) 326 ページ
ペンキ屋の二階の間借りや憲兵の休憩所を基地としてカウントするか? 単にレンタルビデオと同様に賃貸しているだけではないか。
またこうした「間借り物件」の他に、「部分返還」物件もある。
例えば …
- C-25 キャンプ・ハンセンのうち約39万600平方メートル(A表第11号)
- C-26 キャンプ・ハンセン訓練場のうち約17万7,400平方メートル(A表第11号)
このように部分的に基地の一部を返還する場合、それを個別の基地としてカウントするだろうか。
また、B表で指摘したように、明らかに自衛隊に移管される施設を、返還される基地リスト C表に紛れ込ませているのも意味不明である。
こうして、「本土並み」をうたう、その実態は、「沖縄返還協定で沖縄に返還される基地の数」は、ヘリウム風船と同じくらいに中身のないものであった。
無知と傲慢 - 基地ではない地所を新たに基地化
・A表 (継続使用の基地リスト) に記載された非軍用地
しかし、最も問題なのは、日米が、基地ではない7カ所もの地所*16 を、継続して米軍基地として提供するリストA表に入れていた問題であろう。日本側の官僚は、結局、米軍の言いぶんのまま、知らないふりで新規の地所まで米軍基地として強制接収したことになる。
沖縄不在で、勝手に日米間でパイのように切り分けられる「沖縄返還」は、実は「沖縄収奪」に過ぎないという事をまざまざと示す事例である。
東村あたりは、質問に対して、村長さんは一切これから米軍には使わせないとはっきり答弁もしている。… それじゃ、A表にあったのは御存じなかったかということで、私たちは聞いたわけです。とんでもありません、新聞を見てぶったまげた、こういうことなんですね。
学校が建設されている土地ですら米軍基地として接収されるところであった。
今日、Aリストにあげてある7か所のうち、許可をしていないところ、三つだけ申し上げますが、一つは瀬嵩第一、これは本年六月三十日更新を拒否いたしまして解約のままであります。… やはり今日も、ここは学校の建っている地域であり、かつまた、ここにもう一つ学校ができる。この地域でさんざ、時間外を含めましたたいへんな演習が行なわれまして、部落民のたいへんな反対が出てまいりまして、一切貸してはならないという部落の意思が決定されている。
慌てふためいた日本政府は、川田訓練場、瀬嵩訓練場、前島訓練場の3施設について、米軍から「返還」されたものとして、A表から除き、新たに那覇海軍航空施設と伊波城観光ホテルの2施設をA表に追加した。しかし、例えば伊波城観光ホテルも、民間のホテルを海兵隊が一時的にレンタルしただけのもの。当然、地元は大混乱に陥る*17。もうグダグダである。
いったい、沖縄返還協定といいつつ、なぜこのように沖縄の現実から程遠い「寝耳に水」の日米間合意がつぎつぎとなされるのか。
しかも、「5・15メモ」と、たっぷりの「密約」つきだ。
深い絶望しかない。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
*2:沖縄県「沖縄から伝えたい。米軍基地の話。Q&A Book 令和2年版」
*3:正式には「琉球諸島および大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」 Agreement between Japan and the United States of America Concerning the Ryukyu Islands and the Daito Islands といい、1971年6月17日、宇宙中継を通じて東京とワシントン D.C.で署名された。協定本文のほか、「合意議事録」「VOAに関する交換公文」「海没地に関する交換公文」「施設・区域に関する了解覚書」「民間航空に関する了解覚書」「在琉球外資の取扱いに関する愛知外相書簡」の6つの関連文書が付属している。協定は前文および9ヵ条から成るが、前文では佐藤=ニクソン共同声明を基礎に沖縄が返還されることを再確認している。本文および付属文書では,(1) 返還後の沖縄には安保条約を含む日米間の条約、協定を適用すること (2) 返還と同時に現在の米軍基地の大部分を施設、区域として再び提供すること (3) 沖縄県民の対米請求権を原則的に放棄すること (4) アメリカ資産の引継ぎなどの代償として日本側が3億2000万ドルを支払うこと (5) 裁判の効力を原則的に引継ぐこと (6) VOA放送を返還後も暫定的に存続させること、などが取決められた。--- ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*4:英: proposal; 提議
*5:弊履 (へいり): やぶれた草履
*6:『屋良日誌 029』11月17日 (水)「要は党利党略の為には、沖縄県民の気持ちというのは全くへいり〔弊履〕のようにふみにじられるものだ。沖縄問題を考える彼等の態度行動の象徴であるやり方だ」
*7:5.了解覚書「A表: 次の設備及び用地は、日本政府及びアメリカ合衆国政府がその間で別段の合意をしない限り、1960年1月19日に署名された日本国とアメリカ合衆国との間相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(以下「地位協定」という。)第2条の規定により、現在の境界線内で又は備考欄に記載するところに従い、合衆国軍隊が沖縄の復帰の日から使用する施設及び区域として合同委員会において合意する用意のある設備及び用地である。合同委員会における協定は、琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の効力発生の日に締結される。その準備作業が同日前に十分な余裕をもつて終了するように、あらゆる努力が払われる。」
*8:「嘉手納基地を始めとする重要な基地が網羅されているが、継続使用の基地数を
少なくするために、従来は9施設とされていた嘉手納弾薬庫地区が一つに統合されて1施設として計
算される一方で、従来は軍用地ではなかった安波訓練場など7か所が含まれており」--- 沖縄県知事公室 基地対策課「沖縄の米軍基地」(平成15年12月)p. 6.
*10:沖縄県総務部『沖縄の米軍基地関係資料~地位協定に基づく提供施設』(昭和42年11月) pp. 23-24 の最終的な米軍提供施設 A表には記載されている。
*12:「アメリカ合衆国政府が現に使用している設備及び用地で,沖縄の復帰の際又はその全部又は一部が使用を解除されるものには,次のものを含む。」
*13:「一つの金網に囲まれている那覇空港と那覇空軍・海軍補助施設を別々の施設としたり、極めて小さな建物1棟を1施設と数える等々、復帰に際しての基地の実態は、政府が確約し、県民が望んだ基地の「本土並み」とは程遠いものであった」--- 沖縄県「沖縄の米軍基地」p. 6.
*14:VOAは正確には米国防総省管轄の米軍基地ではないため、密約を含む大きな政治問題になる。
*15:七十年代に編纂された沖縄県史の沖縄戦証言には多くの戦争経験者の沖縄返還に伴う自衛隊配備への強い不安の声も同時に記録されている。現在、沖縄の民意を無視する形で自衛隊基地建設やミサイル配備が進めらている現在、こうした危惧はまた現実のものとなっている。
「私たちにとっては、友軍がこの沖縄にきたから、アメリカ軍との戦争に巻きぞえにされて多数の住民が殺され、私たちのように生き残りはしたが、非常な苦しみを味わされたという考えが非常に強いです。私のように日本軍にいじめられた者にとっては、復帰して日本の自衛隊が沖縄へ上陸してきたら、また大変なことになりはしないかと心配です。沖縄県史「戦時下に製糖作業」
以上のような、私の戦争体験を通じてはっきりと言えることは、現在、沖縄では自衛隊配備が次々と進められていますが、クヒータイャ、イクサヌ、サチバイル (兵隊は、戦争の時、先陣をきって行くもの) と言う言葉もあるように、自衛隊がいるために戦争が起きる可能性もあるので、現在すすめられている自衛隊配備には、反戦の立場から絶対許すことのできないものです。沖縄県史「戦争中に清明祭」
*16:安波訓練場、川田訓練場、瀬高訓練場、久志訓練場、屋嘉訓練場、浮島訓練場、前島訓練場の7カ所。
*17:1971年、人口密集地の民間ホテルが基地になることに抵抗する住民は海兵隊入隊阻止のバリケードを引くが、9月14日、警察に警備される形で海兵隊将校第一陣がホテルに入った。11月5日には伊波城観光ホテルの基地化に反対する石川市民総決起大会が開かれた