FAC6181 浮原島訓練場
うるま市の海に浮かぶ宝石、浮原島は、無人島で、島全体が米軍と自衛隊の共同演習場となっている。過去、何度も米軍の演習で島の森林が焼き尽くされた。
浮原島訓練場とその水域
1971年 沖縄返還協定で米軍基地に
沖縄を排除して日米がとり結んだ沖縄返還協定では、厳密には軍用地ではなかった沖縄の地所まで米軍基地として認め、日本政府が米軍に提供することになるという事案が幾つも発生した。浮原島は、そうした議論の的となる事案の一つであり、それがいつのまにか、自衛隊の共同使用の基地となり、さらには自衛隊の管轄する日米共同使用の基地として、使用期間も拡大された。
どのような手順を踏み、沖縄返還協定の名の下で、このような事実上の土地接収が行われたのか、みてみよう。
浮原島訓練場の基地化の経緯
- 米軍統治下で、浮原島は、米海兵隊が地元の許可を得て一定期間訓練場として使用するという「一時使用施設」であった*1。
- 1971年、沖縄を排除して合意された「沖縄返還協定・了解覚書」で、浮原島は米軍が継続して使用する基地リスト (A表) に含まれ、国会でも問題化されるが、1972年5月15日から年間40日を限度として米軍に提供された*2。
- 1978年6月1日、陸上自衛隊に移管され、自衛隊の専用施設「陸上自衛隊那覇駐屯地浮原島訓練」となり、自衛隊が施設管理にあたる。10月19日、使用条件が変更され、米海兵隊の使用期間が年間最大40日から120日に拡大される。
こうして、いつの間にか、許可制の訓練場であったはずの浮原島は、日米共同使用の恒久的な基地となった。沖縄返還協定のA表にいれた時点で、既に米軍と自衛隊とが共同使用するという目論見があったのかもしれないという疑念は、既に1971年当初から指摘されていた。
米側が基地でないと言っている、軍用地でないと言っているものがAリストに入るということは、日本政府の意思じゃないですか。しかも、その日本政府の意思で軍用地に入れて、(地位協定) 二4bとは何だ。明確に自衛隊用地の先取りじゃないですか。米側は軍用地と言っていない。担当の地区工兵隊だって言っていない。確かめてあります。明確に。(A表から) はずしなさい。
そして今、
自衛隊は7日、沖縄県の浮原島(うきばるじま)周辺で安全保障関連法に基づく初の日米共同訓練を実施した。政府が安保関連法で重視する「日米同盟の深化」が、自衛隊の部隊運用レベルでも加速する。
浮原島訓練場の森林火災
米軍は無人島での訓練に由来する森林火災が起こったとき、消火に積極的だろうか。
貝塚時代の遺跡があり、かつては漁民の大切な中継地で、聖なる水源を祀る浮原島では、何度も深刻な森林火災がおこっている。
- 1981年8月、原因不明の原野火災で約490㎡を焼失。
- 1982年7月、照明弾の使用により約63,000㎡を消失。
- 1989年9月、照明弾による火災で80,000㎡を焼失。
- 1999年1月26日、信号弾による火災で約25,000㎡を焼失。
琉球石灰岩で覆われた島で「与勝(よかつ)諸島」に属します。貝塚時代後期の遺跡が発見され、土器が出土しています。島の中央部には井戸があり“一本松の川神(カーシン)”と呼ばれ、竜宮の神を崇める井泉(せいせん)として知られています。戦後はアメリカ軍の演習場になり、日本復帰後に米軍と自衛隊との共同訓練地となりました。以前はアメリカ海兵隊が管理/使用していましたが、1978(昭和53)年6月から陸上自衛隊に移譲されました。渡しの船でビーチに行ったりキャンプも出来ますが、島の中央部に入ってはいけません。
ドローン空撮 浮原島 演習場の無人島 @ 沖縄 4K 60p - Ukibaru Island @ Okinawa - YouTube
浮原島のうさぎ
浮原島にはウサギが野生化して島の植物相にも影響を与えている。
誰が島に放したのかは不明だが、米軍基地とウサギ、といえば、不吉な連想に襲われずにはおられない。つまり、知花弾薬庫の毒ガス事故と、貯蔵されていた約29万発の化学兵器、毒ガス探知用に使われ、そして処分された数百匹ものウサギたちのことだ。
知花弾薬庫での任務の間、プレモンスさんはしばしば、神経ガス漏出の警報器代わりのウサギを世話した。「貯蔵庫の検査の際、私たちは漏出をチェックするためウサギのかごを出入り口近くに置いた。(ガスに)さらされると人間より早く死ぬから」。
米国陸軍通信隊: Red Hat Operation, Okinawa, Chibana Ammunition Depot.
“レッドハット“作戦(毒ガス移送)、沖縄、知花弾薬庫 1971年 1月
沖縄の米軍基地で秘密裏に行われていたのは核兵器関連の訓練だけではない。浮原島のような無人島でも、沖縄島に大量に保管した化学兵器を持ち込んだ訓練を行っていただろうことは十分に想定できうる。
以下は 1969年の衆議院外務委員会議事録から。
楢崎委員「だめですよ、あなた。そんなことを防衛庁知らぬのですか。公表されておるのですよ。いいですか。沖繩本島の中部の陸軍第二兵たん部隊ですね。そしてその直属として本島の中部の瑞慶覧、その瑞慶覧基地から知花の弾薬貯蔵地域に細菌本部を移しておる。これがいまあなたがおっしゃった267化学中隊ですね。それから本島北部の辺野古、この弾薬貯蔵地域に第137武器中隊、それから現在グアム島に派遣されているといわれております、同中部のやはり瑞慶覧の第515武器中隊、これが第2兵たん部隊の直属としてある。そして問題のVXを扱っているのが267部隊なんですね。そしてその化学中隊はCBRのチームをつくっておる。これは1963年。そしてこれは沖繩読みでどう読むのか知りませんが、中部の無人島の浮原島、あるいは北部の宜野座村の松田 (ブログ註 キャンプ・ハーディ)、そういうところ四カ所で実験がされておる。そうして、そのためにその付近のウサギやネズミが変な症状にかかったということは何回も報告をされておる。そして一応沖繩の毒ガス、細菌は嘉手納に近い知花の弾薬貯蔵庫、ここが一番可能性がある。それと北部の辺野古弾薬庫に貯蔵されている。その管理に、ただいま申し上げました第137、第267あるいは第515の各中隊がその管理に当たっておる。もう一つは、1965年の9月に設立された後方支援部隊フォート・バクナー司令部のもとに、先ほど申しましたいわゆるCBR訓練学校がある。そうして、ここで訓練された人たちが前線に行っておる。
身近にある化学兵器に怯えながらの生活とはどのようなものだろうか。
喜屋武眞榮「私の調査によりますと、さっき大臣がおっしゃったあの事件は、4月11日午後10時20分から午後11時までに与那城村の屋慶名という字の150世帯——もっと字は大きいんですが、そこを中心とする地点で起こったガス漏れ事件、目が最初痛くてあけられない、そして赤くはれた、そして鼻、のどが痛んだ、それで三人下痢をした、病院にもかつぎ込まれた。こういうことが、まあある時間を経ましたらいつの間にかその状態が消えた。ところが、それはある調べによりますと、催涙ガスではなく、びらん性のマスタードでないかと、こう言われておる。しかも、その同じような事件がこの4月11日までに三回、三カ所で起こっておることは御存じでしょうか。」
政府委員 吉野文六「この点につきまして、われわれもさっそく沖繩の警察及び米軍当局に照会したわけでございます。そうしますと、先方は、先生のおっしゃられた時刻に25名が、突然目、鼻、のど等に痛みを訴えたが、その症状は20分くらいで回復した。また、二百メートルくらい離れたところでも歩行者が同様の痛みを訴えた。そこで調査したところが、周囲には米軍の部隊は駐留しておらず、また、当時米軍のいかなる部隊もあるいは兵員もこの地区にはいなかった。そこで、本件は全然米軍と関係ないと、またこの場所も、その影響のあった範囲も半径五十メー地ルくらいであって、ホワイト・ビーチに通ずる8号線から1.5キロも離れているので、これは米軍の関係ではないということでございます。なお、与那城の村長がこのあとホワイト・ビーチの米軍基地をたずねまして、二週間前にも同様のことがあり、だれかがゴムタイヤか何かを燃やしたようだと、別にたいしたことはなかったと、こういうように報告しております。」
喜屋武眞榮「いま述べられた程度は私もキャッチしております。ところが、次の私の報告をぜひひとつ受けとめていただいて再調査をしてほしい。と申しますのは、こういうことなんです。勝連村のちょっと離れ島に浮原島——浮くという字と野原の原、浮原島——これは周囲一キロの島であります、勝連村の離島であります。そこでアメリカが、このガス地雷 (ブログ註 = VXガスを噴射する化学兵器地雷) を用いての演習をしておる。で、その島にはウサギが飼われておることが確認されております。そして、その島に運ぶために、屋慶名の海岸からボートで、そのガス地雷を運んでおるという、こういうことが調べられておるのであります。そうしますと、いまさきの報告は、これは表面上の単なる調査でありまして、その背景をこうたぐってみますというと、こういう事実に関連しておるということが、十分想像されるわけですが、だから、これは単なる、このアメリカと関係したものではないとは、私はこの事実からは言えません。その島 (浮原島) は、いわゆる村長が、軍と契約した—— 1年契約に基づく、地主の了解なしに村長が契約をした、こういったいわくつきの島でありますがね。その島での演習との関連がある、こういうことを私事実を手に入れましたんで、それに基づいて再調査をしていただきたい。
浮原島のうさぎは誰が飼っていたものかはわからない。が、確実に言えることは、米軍がキャンプ・ハーディで行っていたような危険な訓練を浮原島でも行っていた可能性が十分あるという事だ。
返還ではなかった返還協定
沖縄県が1996年に策定した「基地返還アクションプログラム」で、県は浮原島訓練場の返還を求めているが、
日本政府は、「沖縄返還」をうたいながら「沖縄返還協定・了解覚書」において、意図的に浮原島を継続使用の米軍基地として登録し、米軍に提供、後に日米共同使用を可能にさせて、現在はもはや陸上自衛隊の基地である。
以前は米軍がありったけの都合を沖縄に押しつけていたが、「沖縄返還協定」では、米軍と日本の両者がダブルの都合を沖縄に押しつけていたということだ。
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