ひろびろ、天願通信所
昭和20年に強制接収。陸軍による物資集積所として使用された後、戦略通信コマンド沖縄通信群の通信基地として使用される。土地区画整理事業が施行され、現在、住宅地、公共施設用地等として利用されている。
米国陸軍通信隊 【原文】 The new Signal Corps transmitter station at Tengan.【和訳】 天願にある新しい通信隊の送信局 撮影日 1954年 7月10日
そして人々の暮らしは
強いられる都市内都市 (inner city) の生活
戦後、安慶名地区は天願通信所 (現在のみどり町) とその他多くの具志川地域の米軍基地によって農地と家屋を奪われた住民で混雑密集し、生活にも困難を極めた。やがて安慶名地区には人口の増加に伴って商店街が形成され、旧具志川市の中心市街地として発展した。
1983年 返還
みどり町の誕生
1983年に天願通信所の土地が全面返還され、それにともなって天願土地区画整理事業がおこなわれた。基地返還後は、新たに「みどり町」として生まれ変わり、うるま市役所をはじめとする公共施設や、うるま市立天願小学校、沖縄県立具志川商業高校学校、住宅地、郊外型店舗などが建設され発展した[3]。人々の生活を圧迫し続けた広大な天願通信所の記憶を刻むモニュメントは少ない[4]。1991年、天願土地区画整理事業の完了を記念し、基地跡地の中央部の「のびのび公園」に「みどり町竣工記念碑」が建てられた。新興住宅街と大型店舗の導入は返還による大きな経済効果の一例となっている。
【2】市営安慶名団地周辺では戸建て住宅の建設も進んでいる
【3】現在の「ベニヤ通り」には年季の入った美容室の建物が連なり、看板には英語が併記された店舗も残っており、ノスタルジックな雰囲気がある。通りの名称は「紅屋」という旅館の名残だ。同じように「あめりかや通り」もある
土地を奪われるということは、生活を奪われることだ。軛の時代に人々の生活を力強く支え続けた安慶名のまちなみの暖かさも安慶名の住宅事業に生かされるといい。
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