FAC6028 天願桟橋 (Tengan Pier)

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天願桟橋

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米軍が、ほんとにヤベーものを運ぶときには、ホワイトビーチではなく、ここを使う、といわれている。

 

天願桟橋。

 

場所はうるま市

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天願桟橋 - Wikipedia

 

1971年8月31日 昆布闘争の勝利

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米軍の土地接収はエスカレートし、ベトナム戦争の最中、具志川市昆布の土地接収を計画したが、もう住民はたじろがなかった。米軍のパラシュートでつくった闘争小屋、林立する支援団体の旗、そして畑を耕す人々。

昆布の土地闘争 : 那覇市歴史博物館

 

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昆布採れない沖縄に「昆布」という地名、なぜ? | 沖縄タイムス

 

  • 1966年1月、ベトナム戦争中の米軍は天願桟橋強化のため、さらなる昆布の土地約8万2000平方メートルを強制接収した。米軍の土地接収に反対する住民は「昆布土地を守る会」を結成し抗議の阻止行動をおこなった 
  • 1971年8月31日、米軍は土地の強制接収を断念し、桟橋の背後地(約 69,000 ㎡)を返還した。 

 

2014年01月02日沖縄タイムス米軍に屈せず土地守る 団結 接収砕いた」

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寒さが身にしみる1966 年12月3日夜。 具志川村(現 在のうるま市)昆布。米軍の強制土地接収に反対し、闘争 小屋で座り込みを続ける住民 に、突如現れた米兵5人が襲 いかかった。

 

「ピー」。口笛と同時に米 兵がコートの下から取り出し たのは石。次々と小屋に向か って投げ込んだ。

 

男がいると米兵と衝突す る。ほとんどの男が引き、現場には昆布土地を守る会の佐公川長正会長(故人)や女性ら3人が残った。

 

長正さんの娘、又吉美江子さん(75)もその場にいた1 人。生後5カ月の長男と3歳 の次女に当たらないよう必死 で抱きかかえ、一緒にいた夫がその上に覆いかぶさて投 石から守った。

 

米兵は各地の支援者から寄せられた旗のさおも全てへし折って引き揚げた。「多くの米兵を目の前にして、恐ろしくて声が出なかった。一瞬の 出来事だったが、とても長く感じられた」

 

1965年12月末、基地で囲まれる昆布の住民に対し、米軍は ベトナム戦争の激化に合わせて天願桟橋を強化するため、 近隣の農地約2万1千坪(約7万平方メートル)の強制接収を通告した。

 

地主38人の多くは、戦争で夫や子どもを亡くした女性た ち。「土地を奪われては生活 ができない」と66年、住民が 立ち上がった。

 

「生粋の農民」だった長正さんは「絶対手を上げてはい けない」と非暴力を貫いて常 に先頭に立った。闘争には県内外から多くの支援者が駆け付け、米やソーメン、野菜、 缶詰なども届き、住民を勇気づけた。

 

天願桟橋では戦地から帰還した米兵の姿が見られた。闘争を支援した比嘉秀次さん(77)は「戦争のための基地拡大を許すわけにはいかなかった」と振り返る。

 

米兵の妨害は幾度となくあ った。動拠点だった闘争小屋も何者かに放火され、全焼したが、コンクリート建てで再建を果たした。

 

勝争開始か ら5年以上たった1971年、17回も接収期限を延長してい た米軍は、断念に追い込まれ た。

 

昨年(2013年) 12月28日、市昆布の民家に住民が集まり、闘争の中で生まれた歌「一坪たりとも 渡すまい」(美江子さんの妹、 佐々木未子さん作詞) を合唱した。美江子さんに声を張り上げようとしたが、当時を思い出して胸が詰まった。

 

その前日の夕日には、仲井真弘多知事が辺野古埋め立て を承認した。「浅はかで許せ ない。普天間はでーじで、辺 野古はでーじじゃないのか。 なぜ沖縄ばかり...」。怒りで一 身が震える。

 

「父が元気だったら『辺野古だけの闘いにしてはいけな い』と言うと思う。布のよ うにみんなで支えなければ。 諦めてはいけない」 ・(中部支社・石底辰野)

 

公約をなげうった仲井真弘 多知事の埋め立て承認で、普 天間飛行場の移設問題は今 年、「実行段階」に入る。米 軍や国に立ちはだかり、基地 を止めた県民の経験をたどる。

 

奪われた土地 四原則可決から60年 下 昆布闘争「一坪たりとも渡すまい」沖縄の負担変わらず
2014年4月30日 琉球新報

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ことし2月11日。米軍間 飛行場の名護市辺野古移設に向 けた仲井真弘多知事の埋め立て 求職回と知事の辞任を求め、 約2千の県民が県庁を取り囲 んだ。県民広場では、0~0

の参加者が輪になって「沖縄を 返せ」や「一坪たりとも渡すま い」などを歌っていた。「一坪 たりともー」を作詞した佐々木 末子さん(5)=うるま市昆布= は複雑な思いでその光景を見つめていた。「まだ、この歌が歌 われないといけないのか」 土地の新規殿反対などを盛り込んだ四原則が立法院で可決 されてから3年後の1965 年2月。米軍は具志川村(現う るま市) の土地2万104 1耳の厳を害した。ベトナ ム戦争の軍需物資の集積所とし て用することが目的だった。

農民だった父、佐久川長正さ んは「土地を守る会」会長 となり、最予定地にテントを 張った。 住民も畑仕事をしなが ら、テントに通った。「農民 は、畑からの作物を食べて生きていた。政治的な意味合いの前 に、土地を守ることは家族を守ることだった」。佐々木さんは 振り返る。

抵抗を続ける中で、米軍から攻撃を受けた。15年12月28日。 年明けの行事について話し合お うと闘争小屋の中や周辺に、佐々木さんを含む5~30人の住民 が集まっていた。隊列を組んだ 同じくらいの人数の米兵がその 前を通ったときだった。「ビーッ」。笛の音が聞こえ、途端に 石が飛んできた。米兵は外套の ポケットに入れた石を闘争小屋 に向け投げつけていた。小屋周 辺に打ち込んでいた結0本の旗 は、全て折られていた。 「S年、伊江島を訪ねた当時 19歳の佐々木さん。

 

「乞食行進」 で土地接喰にあらがってきた高 齢者から話を聞いた時、「一坪 たりともー」の前が浮かんでき た。 米軍はベトナム戦争が泥沼 化した1年、昆布について「こ の土地を必要としない」と通 告、岐諦めた。昆布住民ら は5年にわたり抵抗を続け、一 坪も新規接収されずに済んだ。

 

四原則可決から8年、昆布生 地闘争開始から約6年。佐々木 さんは時間の長さをかみしめ、 「フーッ」と息を吐く。「本土 の人は文化的な生活を楽しみ、 時間を過ごしている。どうして沖縄の人だけ、今でも基地を造ろうとする力と戦うことに時間を費やさないといけないのか」。佐々木さんはそう言う と、 土地闘争を写したモノ クロ写真に目を落とした。

(当銘寿夫

 

レッドハット作戦

毒ガスは嘉手納弾薬庫から天願桟橋を陸路で運ばれ、搬出された。

 


 

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