実はいちばんヤバい系、いわゆる「不正規戦争のための基地」であった。
昭和27年に米軍に接収される前はほとんどが山林原野であり、一部谷間や傾斜面にわずかに田畑が点在していた。同施設は、米陸軍アジア地域援助第一特殊部隊(グリーンベレー)の多目的訓練場として、原子砲の実射訓練や各種の火器類、実弾演習等に使用されていた。
沖縄県「沖縄の米軍基地」(平成15年12月)
沖縄戦と古知屋収容所
1945年、沖縄戦とその後、米軍は伊江島、本部半島、中南部での基地建設のため、多くの住民を劣悪な管理状況にある北東部の収容所に移送した。宜野座村松田周辺にあった古知屋収容所もそのひとつである。
1952年 強制接収
1952年8月1日、松田の約7万5,756坪の土地が布令第91号により強制接収され、米陸軍の実弾射撃訓練場となった。*1。
そのM65のネバダでの唯一の核砲弾実験の映像が残されている。
これをみれば、まさに米軍が沖縄に展開していた演習「ホワイトホース」の意味がよくわかる。聖書、黙示録にでてくる終末を率いる白い馬と帝王のイメージだろう。
▽焦土でも反撃
極東最大の出撃拠点とみなされていた沖縄の基地は、有事には敵国の最大の標的となる。米空軍第313航空師団の年次報告からは、沖縄が焦土と化しても敵の追加攻撃を封じるのに十分な反撃能力を維持できるよう、米軍が核ミサイルを分散配置した経緯も明らかになった。
核の脅威と米軍基地
むろん、このような核配備とミサイル実験は、まったく県民に知らされないまま続いていたものである。
米兵達は射撃準備をすると、木陰や畑のあぜ道にさっと身を隠した。威力も知らされない子供たちが被害にあった。(前出、沖縄タイムス記事)
1972年の日本への復帰前に、沖縄に1200はあったと言われる核兵器。撤去されたというが、沖縄核の密約はいまだ生きており、それどころか、本土や韓国やベトナムへ核弾頭を「供給」する武器庫でもあった沖縄の米軍基地から、本当に核兵器が撤去されたかどうか、疑う声すらある。
米軍の核戦略は、原子砲のような巨大な核兵器から、より「ポータブル」な小型核兵器へ移行していることが、キャンプ・ハーディを見るだけでもよくわかる。
1975年3月31日 全返還
1975年3月31日 全返還されたが、在沖縄米軍の米軍基地による核の時代はほんとうに終焉したのだろうか。
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*1:宜野座村の米軍基地-終戦50周年記念誌― (1995年)))
【原文】 Special Forces-Okinawa. Hardy Camp.
【和訳】 特殊部隊−沖縄。キャンプ・ハーディー 撮影地: 宜野座村 撮影日: 1967年 6月沖縄公文書館所蔵
W54 (特殊核爆破資材) の極秘訓練拠点
昨年2019年5月、ピューリッツア賞最終候補のジャーナリスト、アニー・ジェイコブセンが Surprise, Kill, Vanish (奇襲し殺し消える ~ CIA のパラミリタリー陸軍と工作員と暗殺員) を出版、アメリカでは大きな話題となったようである。そこに実はキャンプ・ハーディーがでてくる。
Annie Jacobsen, Surprise, Kill, Vanish: The Secret History of CIA Paramilitary Armies, Operators, and Assassins, Little, Brown and Company; 2019/5/14 ISBN 978-0316441438
※ パラミリタリーとは、純粋な軍隊ではなく、CIA などの諜報機関と合体した組織を意味する。
キャンプ・ハーディの話は、2016年の元米陸軍特殊部隊グリーン・ライト部隊ウォー氏の聞き取りから始まる。本物の小型核兵器を使ったグリーンベレーの訓練が、ここで行われていたのだ。
それは1960年の秋のことだった。
沖縄の東北海岸沿岸にいる米海軍潜水艦グレーバックから3人がゴムボートで海に漕ぎだす。極秘の秘密作戦の演習のためだ。水面下から敵地に潜入する技術は、アメリカ特殊部隊の小さなエリートグループ工作員、グリーンライトチームと呼ばれるものの作戦だった。
その作戦の訓練は、実際の核兵器を、標的とされる敵地に水面下から運び込み、装置を組み立て、検知されることなく脱出する。潜水艦グレーバックの紋章がうたう題銘は「de profundis futurus」未来の深淵から、というものであったが、まさにこの言葉は危機的な冷戦の時代を暗示するかのようだ。もしも、今アイゼンハワー政権の最後の年に合衆国が戦争にのりだすのならば、それはほぼ確実に核戦争を意味したからである。
俺たちが運んでいるのは核兵器だったんだよ、とウォー氏は回想する。模型ではなく本物のね。陸軍は僕たちに実際の核兵器を持たせて訓練させたんだ。我々は即戦力でなければならなかったし、そして僕たちは実際そうだった。その核兵器戦略ライト・グリーン・チームが行っていたのは、W54 特殊核爆破資材 あるいは特殊 SADM (Special Atomic Demolition Munition) と呼ばれるものだった。
それは98ポンドの重さで、核出力は1から7キロトンに可動できるこの武器は、人間の背中や胸につけて運ばれるよう設計されており、あるいは分解しまた戦場で組み立てられ得るものだった。ニューメキシコ州サンディア研究所によって製造されたこの持ち運び可能な核兵器は完全に直径1マイルほどの地域を破壊できる能力があった。
Annie Jacobsen, Surprise, Kill, Vanish.
超小型核爆弾。
【左側の写真】W54は、アメリカ合衆国が開発した核弾頭。超小型の核弾頭であり、重量は50ポンド(約23kg)ほどである。開発はロスアラモス国立研究所で行われ、1961年-1962年にかけて400発が生産された。
【右側の写真】特殊核爆破資材(Special Atomic Demolition Munition,SADM)とは、アメリカ合衆国が開発した超小型の核兵器である。その大きさより"スーツケース型核爆弾"や"超小型核爆弾"とも称される。
いったん岸辺につくと、グリーン・ライト・チームはゴムボートから空気を抜き、それを埋め、砂と葉っぱで足跡を覆う。「僕たちは標的エリアに歩いていった。いったんそこに到着すると、兵器を組み立て、四時間にタイマーを設定し、そして弾頭を仕込む。二人がかりだよ。安全対策だよね。」どのチームも一人で核弾頭を仕込むことはない。「それから脱出のお時間さ。立ち去るんだ。居場所を中継する無線を使ってね。」
Annie Jacobsen, Surprise, Kill, Vanish.
Special Forces-Okinawa. Hardy Camp. 特殊部隊−沖縄。キャンプ・ハーディー 撮影地: 宜野座村 撮影日: 1967年 6月
沖縄公文書館所蔵
デイビー・クロケットと W54 核弾頭の組み立て完成図がこちら。
訓練が終わり、チームはヘリに運ばれ基地に帰る。「キャンプ・ハーディーにね」とウォー氏はいう。「デブリーフィング (特殊任務の結果報告) するんだ。」
キャンプ・ハーディーは沖縄の北東、東村と荒川村のあいだにある米軍施設。ここで、1960年からそのトップシークレットのグリーン・ライト・チーム核兵器訓練が行われていたというのは、国務省はけっして公式に認めてこなかったものだ。
日本が降伏してから、実質的に沖縄は合衆国の保護領となり、もはや日本の領土ではなくなった。米軍は陸空海軍のための基地を建設し、そして1950年朝鮮戦争の勃発とともに、沖縄は米国の軍隊と諜報作戦のアジアでの戦略的拠点となった。その場所から陸軍と海軍は通常的な軍事作戦をおこなうだけではなく、例えばグリーン・ライト・チームや他の特殊部隊がかかわるような不正規戦争 (unconventional warfare) のための基地が極めて重大となった。
Annie Jacobsen, Surprise, Kill, Vanish.
小学校のそばで原子砲の実射訓練
まだまだ、およそ信じがたいことばかりだ。
超小型核兵器だけではない。キャンプ・ハーディには、どでかいアトミック・キャノン (原子砲) が持ち込まれ、実射実験がおこなわれた。しかもそれは地元の小学校のすぐそばだった。
原子砲とは。
M65 280mmカノン砲はアメリカ陸軍が戦後1953年から1963年まで運用していた野戦重砲。核砲弾射撃を任務としアトミックキャノン(原子砲 Atomic Cannon)と呼ばれた。
原子砲、松田小そばに 夢の国と核の島
同じ55年の10月25日。宜野座村の松田小学校校舎からわずか100 メートルほどのところに米軍が原子砲280 mm カノン砲を持ち込んだ。小型の原爆核砲弾を撃つ核兵器。発信の付け根はドラム缶より太い。
こんなに大きな大砲があるのか、当時5年生の當眞進さん (68歳) は度肝を抜かれた。通常弾による初の試射を前に全校児童約180人が一番新しくて頑丈な職員室の建物に集められた。
窓越しに原子砲を見つめる。火の玉が出たかと思うと、猛烈な風圧が木々をこちら側になぎ倒してきた。直後、轟音が届き、同時に窓ガラスが砕け散った。欠片が刺さって顔や手のあちこちから血を流している子がいた。体にも刺さったのか洋服も赤く染まっていた。児童4人がけがをした。コンクリート製の梁やレンガ造りの壁もひび割れるほどの衝撃だった。
「今日も射撃演習すると言われています、授業も全然できません」。翌日たまたま宜野座村訪れた米議員による土地問題の調査団に、校長は訴えた。
米兵達は射撃準備をすると、木陰や畑のあぜ道にさっと身を隠した。威力も知らされない子供たちが被害にあった。東野さんは原子方があった場所に立ち、よくもこんな学校のそばで、よくも核兵器をと悔しさをにじませる。
松田区の海岸沿い、今の国際交流村には、75年までキャンプハーディがあった。住民が夜道を歩いていると、突然武装した米兵があぜ道から現れることがよくあった。ぱっと出てきて、いつも本当にびっくりした。住民を敵に見立てたゲリラ戦の訓練だったんでしょうね、と當眞さん。
松田区は民間地まで全て米軍の演習地のように使われた。地元で生まれ育ち、町田小の校長を務めた仲間さちよさん (83歳) は、松田も沖縄全体も、日本に「糸満売り」に出されたようなものと言う。昔はここらでもよくあった。だが、子供を打った親は涙を流す。お祝いをしようなんていう親はどこにもいないよ。
< 社会部 阿部岳 >
政府は28日主権回復の日式典を開くサンフランシスコ講和条約が発効した53年、日本は独立したが、沖縄は72年まで米軍施政下に置き去りにされた。20年間本土と沖縄が選んだ別々の問題を証言でたどる。
オクラホマの米陸軍砲兵博物館に展示されているM65の写真。
【訳】この大砲は、冷戦時代にソビエト軍が西ドイツを攻撃した場合に使用するために開発された。11インチ口径の280mm銃は、1949年にW-9 15キロトン弾頭を収容できる最小の大砲であると見なされている。1953年、この銃はネバダ州のテストサイトで最初の原子砲を発射した。15キロトンの発射体は正常に6.2マイル発射され、地上525フィートで爆発した。1951年から1953年の間に合計20個のM65が製造され、そのほとんどが西ドイツに配備された。2台のトラックを搭載した銃は長さ85フィート、幅10フィート、重量は86トンを超え、狭い道路でドイツの村を通り抜けるのは困難だった。
これと同じ M65 を沖縄県公文書館所蔵の写真でも見ることができる。
《AIによるカラー化処理》【原文】 Members of the 663rd FA Bn. during training with the 280 MM gun.
【和訳】 280mm銃で訓練中の第663野戦砲兵大隊のメンバー 撮影日: 1955年11月
しかも、公文書館の米軍記録写真によると、1955年11月。タイムスの記事にある1955年10月25日の試射の時期と符合する。撮影場所は記されてないが、向こう側の地平線が海である地形や土の色から、キャンプ・ハーディーで撮影した可能性は大きい。
恐ろしく巨大な原子砲 280mm。これが小学校そばで実射された。
【原文】 Members of the 663rd FA Bn. during training with the 280 MM gun.
【和訳】 280mm銃で訓練中の第663野戦砲兵大隊のメンバー 撮影日: 1955年11月
《AIによるカラー化処理》【原文】 280mm Atomic Cannon with crew ready for firing at Futema Area. Filed: G&W-Rifles-280mm Atomic.【和訳】 普天間地区で発射準備のできた280mm原子砲
普天間地区で発射準備ができたと書いてあるところによると、発射したんだろう。むろん、核弾頭ではなく普通弾での演習だが。
核砲弾の実射試験は1953年5月25日にネバダで一回しかおこなわれていないという ((M65 280mmカノン砲 - Wikipedia