瀬長島 (1977年返還) ~ 神の島から、黒塗りの弾薬庫、そしてウミカジテラスに至るまで

 

 

那覇空港からすぐ近くの瀬長島 (豊見城市)。聖なる島から、日本軍に接収され、米軍基地の核兵器込みの弾薬庫へ。地形は跡形もなく削られた。1972年には米軍と自衛隊の共同使用の基地として通知されるも、地元の反対の声で1977年に返還される。2015年には人気のリゾートアイランドに。温泉もある。

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日本の“アマルフィ世界遺産)”とも呼ばれる「瀬長島ウミカジテラス」は年間来島者数330万人を超える沖縄県No.3の観光地「瀬長島」に位置する観光・ショッピングスポット。南欧を思わせる絶景と共にショッピングやお食事をお楽しみいただけます。

瀬長島ウミカジテラス【公式】 – 沖縄アイランドリゾート

 

かつては、屈指の景勝地として知られ、神話と恋の聖なる島が、なぜ無残に削り取られ、米軍の黒塗りの弾薬庫となったのか。自衛隊基地とされたのか、今回はこの瀬長島をふりかえってみたい。

 

瀬長島 - 始祖の島、恋の氏神の島

現在と全く違う地形

米軍上陸前の瀬長島には、集落と農耕地が広がっていた。1903年当時の島内人口は91人。 1945年4月2日の米軍の空中写真では、削られ破壊される前の、瀬長の集落と、農耕地が平地に広がり、北端にはサーターヤー (製糖工場) がみられる。

米海軍: Senaga Shima in Ryukyus. Looking north. F.L. 6 3/8”. Alt. about 5000'. Taken by plane from USS MAKIN ISLAND (CVE-93). 【訳】瀬長島の様子。護衛空母マキン・アイランド (CVE-93)の艦載機により、約5000フィート上空から北方面を撮影。(撮影 1945年4月2日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

始祖の島 - 豊見城発祥伝説

永久に失われた「大勢の人が雨宿り出来るほどの巨石奇岩の様子」など、一目でも見たかったものである。

太古の時代、琉球の国を創ったアマミキヨの子、南海大神加那志が最初にこの島に住み、そこから豊見城の世立てが始まったという豊見城発祥伝説が残る。

島内にはかつて瀬長グスクがあり、瀬長按司が居住したグスクだったと伝えられている。これについては、琉球王府が1713年に編集した『琉球国由来記』の中で、「瀬長按司ハ王位ノ御婿ニテ…(巻8)」、「往古ハ瀬長按司居住ノ跡アリ…(巻12)」)と記述されている。これまでに中国製青磁や陶器・グスク系土器などが出土している。

… 1719年(康煕58)に来琉した中国の冊封副使・徐葆光は、瀬長島を訪れた際の様子について、『遊山南記』の中で、美しい砂浜の静けさと大勢の人が雨宿り出来るほどの巨石奇岩の様子など、その変化に富んだ景観を讃えている(『琉球国使略』)。また、昭和11年には沖縄八景の一つに数えられるなど、豊見城を代表する風光明媚な景勝地であった。

瀬長島(瀬長グスク) [瀬長]/豊見城市役所 公式ホームページ

 

恋の氏神の島

琉歌や組踊り「手水の縁」の舞台で知られる。

琉歌

瀬長山見れば恋の氏神のお招きが召しやいら我肝あまち (詠み人知らず)

瀬長山をみれば恋の氏神が手招きされているのであろうか。私の心はひどく揺れるのである。

組踊「手水の縁」

世間とよまれる 瀬長山見れば 花や咲き美さ 匂しほらしや

世に名高い瀬長山を見れば、花は美しく咲き、匂いも香しい

純愛引き立てる歌三線 組踊公演「手水の縁」 はやる心 唱えで表現 | 沖縄タイムス

 

1921年の夏、引き潮時に荷馬車に乗せられこの島を訪れた折口信夫は、子宝岩の記録などを残している。しかし、深い信仰の対象だった子宝岩も、米軍の道路建設のために破壊された。今あるのは、レプリカである。

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島の南西側海岸にそびえ立つ大きな岩が子宝岩だ。… 穴に向かって小石を投げ、上に入れば男の子を、下は女の子を授かるとの言い伝えがある。沖縄戦時、米軍によって破壊されたが、2015年に復元された。中はコンクリートで外は琉球石灰岩の作りとなっている。

瀬長島をパワースポットに…「子宝岩」のお守り 豊見城市観光協会が発売 - 琉球新報

 

沖縄戦と瀬長島

1944年 - 日本軍による接収

1944年、日本軍小禄飛行場の防備のために砲台と壕を構築。瀬長島の島民全員が強制退去させられた。

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海兵隊: A View of a ruined 120mm howitzer on its concrete emplacement on Senaga Shima. This weapon was emplacement[emplaced?] to be used against an amphibious landing on the island. The island was undefended, however, when the 6th Reconnaissance company came ashore.【訳】 瀬長島のコンクリート砲座の上にある破壊された120ミリ榴弾砲。これは島への上陸に対抗するために (日本軍よって) 設置された。しかし第6偵察中隊が上陸した時、何の抵抗もなかった

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

1945年6月12日 - 米軍の上陸

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USMC Operations in WWII: [Chapter II-9]

1945年6月6日、米軍が小禄海軍の包囲を始めると、瀬長島に設置された日本軍の砲台からの砲撃をうけた。そのため米軍が瀬長島にむけて砲弾を撃ち込むと、大砲はすぐに下火になったという。6月12日米軍は小禄の海軍司令部を包囲し、また瀬長島を空爆し上陸した(海兵隊の記録では、6月10日夜に島を偵察し、6月13日に正午に瀬長島を確保する命令が出される。) 米軍は抵抗なく上陸。

島は4日間にわたって激しい砲撃にさらされ、一晩中封鎖された。1/29のC中隊は偵察中隊に所属し、6月14日午前5時に攻撃を開始した。抵抗には遭遇しなかったが、半島で掃討が続いたため、ウォーカー少佐の部隊が島を徹底的に捜索したところ、砲撃、空爆、艦砲射撃による犠牲者だけが見つかった。敵の死者と、小禄にむけられた消音銃だけだった。

HyperWar: USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

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Aerial strike on Senaga Shima, showing explosions caused by bombs dropped by Marine pilots.【訳】海兵隊機による空爆を受ける瀬長島(1945年6月12日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Tanks of the First Armored Amphibians line up against a sea wall ready for shelling of landing while planes in the background bomb Senaga Shima.【訳】後方の飛行機が瀬長島を空爆する中、上陸砲撃の構えで護岸に接するようにして車列を組む第1装甲水陸両用車両。瀬長島 1945年6月12日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍記録、瀬長島の日本軍陣地。

 

米軍基地として接収された瀬長島

黒塗りの瀬長島 - 米軍弾薬庫

瀬長島は米海軍弾薬貯蔵基地となる。瀬長グスクや多くの聖地は破壊され、山は削られ、景観は大きく変わった。

1944年(昭和19)、沖縄戦に伴い住民らに島外退去が命ぜられ、引き続き戦後も島全体が米軍基地として接収されることとなった為、やむなく島民は対岸で集落を構えざるを得なかった。このときの基地建設工事で島は大きく削り取られ、また、島と本島および空港とをつなぐ2本の海中道路が取付けられるなど景観は激しく変貌した。島は、長らく米海軍弾薬貯蔵基地として使用され、1977年(昭和52)には返還された。

戦前まで島内には、瀬長グスクの遺構を始め、子宝祈願とともに誕生する新生児の性別を占った「子宝岩(イシイリー)」、さらに『琉球国由来記』にも記述のある瀬長ノ嶽など多くの遺跡や拝所、井泉等が残り、信仰の対象として各地から参拝者が訪れていたが、戦後は立入禁止となり遺構の多くが基地建設と同時に破壊され往時の面影はほとんど残されてない

瀬長島(瀬長グスク) [瀬長]/豊見城市役所 公式ホームページ

 

1970年の米軍空中撮影では、弾薬庫となった瀬中島は真っ黒に塗りつぶされている。

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国土地理院 空中写真 琉球政府 MOK701-C14-22 撮影 1970/05/12

 

1972年5月15日の施政権移行後は、空中撮影も黒塗りされないので、それ以降の写真を見てみよう。1973年の空中写真では、瀬長島の全体が覆土型の弾薬庫になっていることがわかる。また米軍が建設した2本の空中道路の南側の接岸地域にあるアカサチ森には、瀬長島にあった拝所が全部移転された場所だ。

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「瀬長島に核、化学兵器」は十分あり得る。瀬長島から北側にのびる空中道路の対岸には1959年に核ミサイル誤発射事故もあったといわれているミサイル基地「那覇サイトがある。ナイキ・ハーキュリーズが配備されていた場所だ。

 

1973年の瀬長島空中写真を拡大すると、軍道と、覆土型の地下の弾薬庫の入り口、そしてミサイルサイトのように見える構造物も北部中央に見える。当時は瀬長島にもミサイルサイトがあると考えられていた。(ちなみに、冷戦時代の核ミサイルサイトの形状は下図のように見える。) また、1977年の写真では、地下まで掘り下げての弾薬庫撤去のようすがわかる。

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FAC6048 ホワイト・ビーチ地区 ~ ホワイト・ビーチとは何なのか - Basically Okinawa

 

瀬長島に核、化学兵器も。

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日本「復帰」した1972年8月31日の琉球新報1面トップは、「〝瀬長島に核、化学兵器も〟/社党県本部/黄、赤の施設判明/基地立ち入りを要求」との見出しで、社会党県本部の調査団による報告内容を伝えている。隣接記事には公明党在日米軍基地総点検の中間報告を伝えていて「南ベに毒ガス輸送/公明党、基地総点検を発表」との見出しで、広島県呉市の弾薬庫から南ベトナムに致死性化学弾が輸送されていたと発表内容を掲載している。

復帰直後の沖縄〈50年前きょうの1面〉8月31日「瀬長島に核、化学兵器も」―琉球新報アーカイブから

 

また沖縄返還協定に関する1969年11月21日のニクソン大統領と佐藤総理大臣との合意議事録には以下のような、いわゆる「核の密約」記述がある。

米国政府は、極めて重大な緊急事態が生じた際、日本政府との事前協議(A)を経て、核兵器の沖縄への再持ち込みと、沖縄を通過させる権利を必要とするであろう。米国政府は、その場合に好意的な回答を期待する (B)。米国政府は、沖縄に現存する核兵器貯蔵地である、嘉手納、那覇辺野古、並びにナイキ・ハーキュリーズ基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、極めて重大な緊急事態が生じた時には活用できるよう求める。

この那覇核兵器貯蔵地というのが、核ミサイルサイトの那覇サイト、あるいは、黒塗りの瀬長島、であったと考えられている。

 

1972年、返還されないまま自衛隊基地に

施政権移行と同時に「日米共同使用」!?

沖縄抜きで決定された「沖縄返還条約」では、沖縄の米軍のナイキ・ハーキュリーズやホークミサイルのサイトの多くは、非核化されたうえで自衛隊に移管されることに。ミサイルサイト移管のためにサイト基地内に自衛隊が入り、ミサイラーの訓練を受けることになっていた。現在もそうであるように那覇空港を含む小禄の米軍基地の多くは自衛隊に移管され、おそらく、このような流れで、瀬長島も米軍と自衛隊基地の共用となった。これに地元は強く反対する。

日本「復帰」した1972年8月15日の琉球新報1面トップは、… 「瀬長島は日米で使用/人民党、強制収用に強く抗議」と、瀬長島の使用について那覇防衛施設局長が米軍と自衛隊とで共同使用する方針を明らかにしたと伝えている。

復帰直後の沖縄〈50年前きょうの1面〉8月15日「問われる戦争責任と平和/きょう『終戦記念日』」―琉球新報アーカイブから

 

瀬長島は、沖縄返還協定・了解覚書において、おそらく返還される予定の米軍基地リスト C表 の3 に入れられていたと考えられる。

C-3 那覇空軍・海軍補助施設のうち日本国政府が使用する部分(A表第66号)

しかしそれは「返還」ではない。日本国政府が「自衛隊基地」として使用するという取り決めである。

 

こうして、県民が知らないうち、自衛隊がするりと瀬長島に入ってくる。

○上原委員 いわゆる瀬長島、あれは全部弾薬庫です。これは海軍・空軍補助施設になっているわけです。この間私も本委員会の調査団と一緒に現地参加させていただいたのですが、いつからこの瀬長島の弾薬庫は共同使用になったのか。
○平井(啓)政府委員 昨年の5月15日、復帰の時点からでございます。

第71回国会 衆議院 内閣委員会 第33号 昭和48年6月22日

1972年から1977年の米軍と自衛隊の共同使用期間は、与座など他の米軍の核ミサイル・サイトと同様に、日本の自衛隊への引継ぎやミサイラーの訓練に使用されたと思われる。

 

1971年、瀬長亀次郎の国会質疑

かなりの米軍基地が、「返還」という偽善的名目で、フェンスの中からフェンスの中へとそのまま自衛隊基地に移行された。

 

瀬長島も、もし地元の強い反対がなければ、自衛隊の弾薬庫になっていたことだろう。

1971年、瀬長亀次郎の国会質疑

次に、それと関連いたしまして——屋良主席には防衛庁長官からの親書です。さらに、当該市町村長あてには内海次官からの親書が出ております。これに対しまして豊見城村長——この豊見城村は、目玉商品、かように宣伝されている那覇空軍基地、このミサイルサイトになっている瀬長島というのがあります。四万坪、これはほとんどが村有地である。これに対して、自衛隊が使うので協力を要請するということであった。これが6月25日の親書、

 

これに対して7月1日に又吉豊見城村長 (註・又吉一郎) は、これは村民のための土地にぜひしたいから

お断わりする

ということで答弁書が出ておるはずであります。

 

さらに7月15日には、那覇市も同じような立場から、都市計画、市民のための土地の開放を要求して、

自衛隊の配備まかりならぬ

き然たる態度をとって答弁しております。

 

こういったような広範な、県民が、しかも市町村長自体が立ち上がって、自衛隊が使う基地は絶対に提供しないという態度を示しておる。これに対して、自衛隊をあくまで力をもって配備するつもりであるのか。その場合、土地は市町村自治体並びに個人の所有地である。この所有権をも否定して、国家権力をもってこれを押えつけるという措置をとるのかどうか非常に不安に思っております。この点は、特に長官から答弁をお願いしたいと考えます。

第66回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会公聴会 第2号 昭和46年7月23日

こうして、瀬長島は、県民の強い抗議の声で、1972年5月15日から5年間のあいだ、米軍と自衛隊の共同使用、その5年後の1977年に返還されることが決定した。

 

現在の瀬長島とこれから

1977年5月14日 - 瀬長島が県民のもとに帰ってくる

1977年、長年の住民の返還をもとめる声が実現する。不発弾除去や汚染物質の除去を行ったうえ、跡地計画をたて、温泉を掘り出し、・・・長い長い道のりである。

 

2015年には「ウミカジテラス」が開設。かつてミサイルサイトのような構造物が残されていた場所には温泉も湧き出るリゾートホテルが建つ。

日本の“アマルフィ世界遺産)”とも呼ばれる「瀬長島ウミカジテラス」は年間来島者数330万人を超える沖縄県No.3の観光地「瀬長島」に位置する観光・ショッピングスポット。南欧を思わせる絶景と共にショッピングやお食事をお楽しみいただけます。

瀬長島ウミカジテラス【公式】 – 沖縄アイランドリゾート

 

豊見城市 瀬長島観光案内ガイド 瀬長島 PDF

 

みなさんが、次回、ウミカジテラスを訪れるとき、島の道路を車でドライブするとき、聖なる島、伝承と歌の島から、日本軍駐屯と戦争の破壊、米軍の黒塗り弾薬庫、知らない間に入り込んできた自衛隊、強い住民の反対運動で返還され、米軍基地で破壊された子宝岩の再建、長い時間をかけての除去作業と跡地開発、こうした歴史があっての今の瀬長島を楽しんでほしい。

 



 

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