8. 日本海軍 糸満秘密飛行場(与根飛行場)

日本海糸満秘密飛行場(与根飛行場)

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日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。

7     海軍小禄飛行場(海軍那覇飛行場)
8     海軍糸満秘密飛行場(海軍与根飛行場)         

 

1944年 - 与根飛行場の建設開始

大本営「不沈空母」構想として、米軍の沖縄侵攻のちょうど1年前、沖縄の第32軍に、既に建設着手している飛行場だけではなく、貼り付け特攻機用の 4カ所の秘密飛行場の建設を命じる

 

昭和19年(1944年)3月、第32軍は「十号作戦準備」により新たな飛行場設定の任務を負って緊急工事を引き継ぎ、既設飛行場の拡張整備のほかに、さらに小型特攻機用の発進基地として新設飛行場の建設に着手した。それが❶ 仲西飛行場(沖縄南飛行場・城間飛行場)、❷ 西原飛行場(沖縄東飛行場、小那覇飛行場)及び❸ 首里秘密飛行場(石嶺飛行場である。海軍も小禄飛行場の補助飛行場として❹ 糸満から豊見城村与根にまたがる海岸平地に秘密飛行場の建設を計画していた。

沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書」PDF

 

大本営不沈空母構想として、米軍の沖縄侵攻のちょうど1年前、沖縄の第32軍に、既に建設着手している飛行場だけではなく、貼り付け特攻機用の4カ所の秘密飛行場の建設を命じた。

 

当時、与根飛行場にも糸満市域の多くの住民が徴用で駆り出された*1慰安所も作られ、多くの兵士が列をなして待ち、順番待ちのあいだに地元の子どもたちとよく遊んでいたという。しかし、他の小型特攻機用の飛行場と同様に、未完成のまま放棄された。1944年11月の第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」にも記されていない。

 

空中写真では、石嶺飛行場と同様に日本軍が造成している痕跡を確認することは難しかった。牧港の仲西飛行場とは異なり米軍の戦略マップにも記載されていないため、ほとんど形を成していなかったのではないかと思われる。

 

小禄半島から南下する白い直線のラインは現在の豊見城糸満線に相当。

 

が、米海軍の写真解析は建設中の糸満秘密飛行場をしっかりととらえていた。

Okinawa Gunto, Cincpac Cincpoa Bulletin 53-45, 28 February 1945

 

与根飛行場の秘匿

海軍「沖縄方面海軍作戦」(防衛研究所) には与根飛行場の場所が記載されている。 

戦史叢書第17巻 沖縄方面海軍作戦 (防衛研究所

 

一九四四年夏に第九師団が駐屯し、集落後方の伊良波丘陵に陣地を構築したが、一二月に台湾へ移動した。… (伊良波) 集落の正面では与根飛行場の建設が進められていた。(慰安所)一軒は集落の真ん中にあったため、住民は慰安所の前に兵隊が行列して待つ姿を目にしている。順番待ちの間、兵隊はよく子どもたちと遊んで時間をつぶした。もう一軒は県道に面した民家であった。

季刊戦争責任研究 - 第 59~66 巻 p. 30

 

与根飛行場について「いつから来たかね、いまの伊良波の公民館があるでしょう、あそこに小さい宿舎があって14歳15歳の少年兵・防衛隊がいた。あの防衛隊の子どもたちは、与根からまっすぐ翁長に続く滑走路があった、その滑走路を偽装するために各家庭にガジュマルの葉っぱ、木の葉っぱをとりにきた。葉っぱで滑走路を隠すために。アメリカーの飛行機が来てもわからないように偽装した。… 兵隊は夜になったらひもじい思いをして、「腹減った腹減った」って可哀そうに思い、おにぎりもっていきたべさせた。自分の息子たちも兵隊に行ってこんなひもじい思いをするかと思って。

豊見城市歴史民俗資料展示室: 012 S 村内避難:大城シゲ(伊良波) - YouTube

 

字与根の飛行場造りには、字に対する直接の徴用ではなく、二豊の初等四年から高等二年までの学童に対して作業動員があった ようだ。同校に通う上田の学童も作業に参加しており、 豊見城グスク城壁の石を二人一組で三~四個づつモッコで運搬する作業に従事させられた。と証言している。

豊見城村史だより第四号 1999.1.25, p. 12

 

学童があつめたガジュマルの葉っぱで、米軍の偵察機と写真解析班の眼を欺けるものだろうか。豊見城のグスクの石を崩して学童ににモッコで運搬させる、食事もままならない状態で、など、滑走路建設の進捗以前に、ほんとうに心が痛む。

 

1945年 - 米軍「テラ小飛行場」建設

米軍は6月10日頃には糸満市街地に到達している。

 

それから半年後の1945年12月の空中写真では、よりくっきりと直線の豊見城糸満線に並行して、長い滑走路が建設されていることがわかる。日本軍が建設途中だった滑走路から、若干、南側が海岸に近く造成しなおされているように見える。

 

 

米陸軍の公刊戦史をみてみよう。

【適当な訳】沖縄で通常では、戦場で撃たれた兵士は、収集部隊によって、ジープ救急車、ウィーズル自動輸送車、または武器運搬車で、前線ラインの200〜400ヤード後方にある救急ステーションに運ばれる。… 最終的に、患者は前線の4〜6千ヤード後方にある野戦病院に到着する。沖縄では、大雨により道路が通行不能になった5月末まで、野戦病院への避難は順調に進んだ。

6月10日までに、第24軍の地域からの搬送が南の港川まで延長された。糸満のIII水陸両用隊部門では、沿岸のサンゴ礁と日本軍の攻撃のため、水路での(負傷兵の)搬送は実行不可能であった。その結果、L-5連絡機による患者の搬送が開始された。飛行機は糸満のすぐ北にあるコンクリートの直線道路 (ブログ註・豊見城糸満線、軍道3号線) に着陸し、患者を北谷に運んだ。6月15日、港川からの第24軍の死傷者の空中搬送が開始された。6月末までに、1,232人の負傷者が小型飛行機によって野戦病院に搬送された。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 16]

 

海兵隊の公刊戦史はまたこのように記している。

【和訳】(負傷者の) 退避はまもなく糸満の北側の狭いコンクリートの道路を滑走路として使うことによってさらに改善された。そこから軽飛行機が負傷者を空輸するわけである。

Okinawa: Victory in the Pacific, 1955, p. 232.

 

6月の当初は、豊見城糸満線の道路をそのまま滑走路として緊急使用していたことがわかる。(6月13日、海兵隊写真)

 

米国海兵隊: Plane takes off of a roadway near the town of Itoman near the front lines, evacuating wounded.【和訳】 負傷者救出のため前線近くの糸満の道路から飛び立つ飛行機     糸満市 1945年6月13日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

しかし、これでは確かに狭く危険である。下の糸満の小飛行場と思われる写真をもとにすると、一か月後には、直線道路に並行した小飛行場が建設され運用されているのがわかる。

 

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米国空軍: Aerial view of the cub strip at Ters on the west coast of Okinawa, Ryukyu Retto. The strip was used by Piper L-4s for artillery spotting, and Vultee L-5s were used for evacuation of wounded from the island.【和訳】 空から見た本島西海岸の台地の補助飛行場。大砲を設置するパイパーL-4機や傷病兵救助用のヴァルティL-5機が利用する。沖縄 1945年7月16日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

上の写真のキャプションには "cub strip at Ters" とあるが、Ters はどの地名を指しているのであろうか。誤字だとすれば、Tera という可能性もある。1945年8月末日に作成された内部地図では、この辺り「照屋」を Tera と表記してるので、おそらくは Tera のタイポの可能性もある。

 

 

このように糸満から多くの負傷者が軽飛行機で搬送された*2

 

米空軍: Medics removing litter patients from Vultee L-5 ”Sentinel” as T/Sgt. Sylian H. Sharp, pilot, from Duncan, Oklahoma, looks on. Evacuation cases were flown to Field Number 10, Okinawa, Ryukyu Retto.【和訳】 パイロットのシャープ二等軍曹が見守る中哨戒機ヴァルティL-5センチネルから担架に乗った患者を降ろす。護送用の輸送機は第10飛行場に入ってくる。沖縄。1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

皮肉なものである。

 

日本軍は、人間を爆弾として利用する特攻飛行機戦略のため、糸満秘密飛行場を建設しようとした。しかし米軍は、軽飛行機を使って負傷した兵士を中部の野戦病院に搬送するため利用した。

 

「与根飛行場」と「テラ小飛行場」

しばしば、日本海糸満飛行場「与根飛行場」跡地として示される空中写真は、実際には米軍占領後の 1945年12月に撮影された、米軍の小飛行場の空中写真である。しかし、これは正確には日本海軍が建設途中で放棄した「与根飛行場」の跡地なのだろうか。

 

 

海軍が千五に作成した「沖縄方面海軍作戦」の図がどこまで正確なものかはわからないが、それを見る限りは完全に一致しているわけではないようにも見える。

 

 

人間を爆弾兵器として利用する特攻機のため建設した日本海軍「秘密糸満飛行場」は、途中で放棄されたために、幸いなことに利用されることがなかった。沖縄を「不沈空母」として利用する航空基地計画は、そもそもが実行不可能な机上の空論であったのだ。

 

一方、米軍が接収し修復した小飛行場は、6月末までに、実際に1,232人の負傷者を野戦病院に搬送することができた。

 

今も日本では、特攻を美化して語る人間が絶えない。

 

人間を爆弾として利用する異常な戦争のやり方を、今も、「散華」などという宗教的レトリックを使って美化し、神話のように歴史を語るのは、同じ言葉を使って若者を逃げ場のない死に追い込んで、「生贄」として消費していった日本軍や国家神道と同罪の狂気である。

 

 

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戦後、与根飛行場と石嶺飛行場は、未完成のため米軍基地として利用されることもなく、またそのため国有地ともならず、土地はもとの所有者のもとにもどった*3

*1:糸満市糸満市史』1982, p. 945.

*2:その搬送先の一つが「第10飛行場」であるが、この Field Number 10 に関して、比較的多く写真が残されているものの、空中写真がほとんどなく、場所がよくわからない。野戦病院があること、第10陸軍第163通信中隊管轄、この条件では、もしかしたら嘉手納と池武当小飛行場の近くにさらに小飛行があったのかもしれない。既に研究されているかもしれないので、ご存じの方はコメントや SNS でご連絡くだされは幸いに存じます

*3:沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書」第6章 旧軍飛行場用地問題の戦後処理案の方向性