7. 日本海軍「小禄飛行場」

日本海軍「小禄飛行場」

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日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。

 

沖縄の玄関口、那覇空港

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沖縄のコロナ感染爆発の背景にある在日米軍の暴虐<沖縄タイムス記者 阿部 岳> | 日刊SPA!

 

かつて一帯は小禄村と呼ばれ、人口9,000人戸数1,800戸の、肥沃な農地と豊かな海の恵みに支えられた集落があった。冷戦時代は核ミサイルの拠点のひとつとなり、そして観光立県沖縄の玄関口でありながら、実際には今も那覇空港は軍民共で、巨大な軍事拠点のただなかにある。

 

1933年 - 日本海軍「小禄飛行場」の建設

現在の那覇空港がある場所は、かつては島尻郡小禄村とよばれていた。

1933年8月、日本軍が旧小禄村大嶺の土地を強制接収小禄飛行場を建設した。

 

1944年11月の第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」では、海軍小禄飛行場は3本の滑走路を L 字型に組み合わせたもの。

 

 

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1944年10月10日、十・十空襲の第一次攻撃の標的となり、禄飛行場から飛んだ飛行機は1機もなく、高射砲ひとつ届かず火の海と化した。その十・十空襲でとられた空中写真から下のターゲットマップが作成される。

 

Okinawa Sheet 3625-IV SE, 1944

Okinawa Sheet 3625-IV SE, 1944 | From the World War II: Okin… | Flickr

 

1945年6月4日 - 米軍、小禄半島に上陸

6月4日、米軍が半島北側の鏡水から上陸。小禄の戦いが始まる。

1945年6月4日 『米軍、小禄半島に上陸』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

1945年6月13日、現在の豊見城市にある旧海軍司令部壕で大田實司令官が拳銃で自死する。大田司令官率いる小禄の海軍は、第32軍に軍装備や兵士を提供の末、不可解な「すれ違い」により、軍装備もほとんどない丸腰の状態で小禄に引き戻され、壮絶な最期を強いられた。

 

1945年 - 米軍「那覇エア・ベース」の建設

米軍は占領した小禄半島に新たに滑走路を建設する。L字型ではなく、1本の滑走路に集約する。

 

垂直の新滑走路の下に日本海軍の「く」の字の形の滑走路がまだ確認できることに注意。

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沖縄戦をなんとか生きのびることができた小禄の住民は、長期にわたって収容所の収容生活を強いられ、具志・宮城・高良・赤嶺の住民にやっと帰村許可が下りたのは1947年8月のことであったが、米軍はこの時点で既に旧小禄村の面積の70.45%を占有していた。

 

小録村村長長嶺秋夫から1953年1月27日に琉球政府に提出された陳情書

戦前の小禄村は総面積3,099,846坪を所有しており、12部落で人口9,000人戸数1,800戸で、文化、経済、教育、その他のあらゆる側面で恵まれ県下でも屈指の裕福農村でありましたが、図らずも去った太平洋戦争の結果、戦前所有していた土地の70,45% (2,182,709坪) を軍用地に使用され、現在ではわずか1,924,277坪しか残されておらず、あまつさえ、人口は14,000に増加し、余儀なく密集生活をしているのであります。*1

 

1953年12月5日 - 強制接収「銃剣とブルドーザー」

さらに1953年12月5日、米国民政府は銃剣とブルドーザーで残りの土地の約2.4万坪を強制接収し、「那覇空軍・海軍補助施設」を建設。旧小禄村のほぼ全域が米軍基地に占有されることとなった。 

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那覇空軍・海軍補助施設 - Wikipedia

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那覇市 - 小禄の米軍基地 - Okinawa Base Story

 

小禄半島に設置された米軍基地。その中には核兵器が配備された那覇サイトもあった。

またその詳細に関しては、後の米軍基地項目で扱いたい。

 

住民から新たに強制接収した土地はサバービアな米軍住宅となった。

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米軍施設/那覇空軍海軍補助施設(将校、下士官及び軍属用住宅)(航空写真) : 那覇市歴史博物館

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那覇市歴史資料室収集写真/戦後/現在の金城附近

米軍施設/OFFICERS OPEN MESS(将校クラブ メスホール)遠景(航空写真) : 那覇市歴史博物館

 

小禄半島はまるでカリフォルニアかどこかの中産階級のサバービアのように変身する。一方で、住民は土地を奪われ、超過密のトタン屋根や、カバヤー生活をしいられた。沖縄戦は戦後も人々の命を奪った。

 

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事件・事故/不発弾爆発 聖マタイ学園 爆発で飛ばされた残骸で穴があいた壁 : 那覇市歴史博物館

1974年3月2日。聖マタイ幼稚園そばの下水道工事現場で重機が基礎工事用の鉄くいを打つ中、日本軍が使用した機雷に触れて爆発した。爆発時はひな祭り会の最中だった。3歳の女児や作業員ら4人が死亡、34人が重軽傷を負った。事故をきっかけに県の公共事業で磁気探査が導入されるなど、県民に衝撃を与えた。

悲劇忘れない 聖マタイ幼稚園不発弾爆発事故、現場に石碑建立 - 琉球新報

 

1972年「沖縄返還協定」- 米軍基地から自衛隊基地へ

そして沖縄抜きの「沖縄返還協定」で、小禄自衛隊がやってくる。

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復帰後の自衛隊配備は日米間政府の了解事項だった。(1972/05/22)

『写真でつづる那覇戦後50年 1945-1995』p. 52

那覇に降りたった自衛隊員 : 那覇市歴史博物館

 

1972年の「沖縄返還協定」で自衛隊が米軍から委譲された小禄の基地面積は、日本軍がかつて強制接収した土地よりも圧倒的に拡大していたという皮肉な現実が発生する。

 

戦後は、日本軍に替わり、米軍が更に広範囲の地域を基地として収用し、小禄村の83%にも及んだ。5つの字の住民は疎開地、捕虜収容地から帰還する村が無くなってしまった。影響を受けたのは大嶺、鏡水、當間、安次嶺、金城の5つの字で、住民は米軍が指定した場所に住み始めるが、諸問題で、5つの字の住民が新部落建設期成会を結成し、1958年 (昭和33年) に新部落が完成し、移住して始まる。

Okinawa 沖縄 #2 Day 136 (21/09/21) 旧小禄村 (4) New Hamlet 新部落 | Kazu Bike Journey

 

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那覇空軍・海軍補助施設跡地開発 PDF

 

沖縄返還協定」とは名ばかりで、沖縄に返還された地所 (オレンジの部分) はわずかの面積であった。しかも十数回にわたっての分割返還。那覇空軍・海軍補助施設は1986年10月31日に返還が完了する。今後各基地ごとに検証していきたい。

 

2020年3月26日 - 那覇空港「第二滑走路」の運営開始

2020年3月26日、これまで沖縄の玄関口となる一本の滑走路を自衛隊と民間で共有しなければならないという超過密滑走路から、2本目の滑走路の完成により、大きく改善された。

 

那覇空港、第二滑走路を2020年3月26日から供用開始 - トラベル Watch

 

既存の第1滑走路は離陸専用、新しい第2滑走路は着陸専用となります。また新たに管制塔も建設され高さはこれまでのものの2倍以上の88メートル、羽田空港に次ぐ、全国2番目の高さです。滑走路が2本に増えることで年間の発着可能回数がこれまでよりおよそ10万回増え、24万回の発着が可能になります。

那覇空港 第2滑走路運用開始 観光振興に期待も – QAB NEWS Headline

 

しかし、もし沖縄の歴史を知らなければ、「なぜ沖縄の人は、那覇空港の埋め立てに反対せず、辺野古の埋め立てのみ反対するのか?」「沖縄県の海岸は多く埋め立ててきているではないか」などという意見にミスリードされ、沖縄に対する偏見を知らず知らずのうちにもってしまうだろう。

 

しかし、事実として知るべきことは、多くの沖縄の埋め立てには、戦後からの米軍基地の存在が大きく関連してきたということだ。実際に米軍占領時代に米軍が直接・間接的に海岸の埋め立てを行ったケースだけではなく、沖縄市の泡瀬のように、圧倒的な面積を米軍によって接収されているため、当時の桑江朝幸市長が決定したというケースもある。

 

那覇空港の第二滑走路増築の場合は、歴史と上の地図を見れば明らかである。小禄半島は最初に日本軍、さらに米軍によって次々と強制接収された。1972年の「沖縄返還協定」では、米軍によって接収された小禄半島の土地は、そのほとんどが実際には「返還」されることなく、米軍から自衛隊に「移管」された。軍から軍への移管なので、その土地は占領時代から変わらず立ち入ることはできない。

 

那覇空港は、その周囲に広がる膨大なエリアがぐるりと自衛隊基地になってしまった、そのために滑走路や施設が拡張できない。たった一本の滑走路自体が自衛隊との共用であり、何かあれば (例えば自衛隊機の脱輪事故などあれば) その理由で空港の機能は停止し、何時間も空港で待たされることになった経験を持つ人も少なくないだろう。

 

那覇空港は、埋め立てないのであれば自衛隊基地に撤退してもらうしかない。現段階、八重山諸島から沖縄島に至るまで各所で米軍基地と自衛隊基地がダブルで押しつけられ拡張されているなか、そもそも「なぜ沖縄の人は、那覇空港の埋め立てに反対せず、辺野古の埋め立てのみ反対するのか?」という質問自体が、相手の左足を踏みつけておきながら、相手に「なぜ左足も上げようとしないのか」と問うに等しいことである。

 

日本のメディアが沖縄の今を報道するとき、抑圧の地続きにならないよう、共感をもって何度も何度もその歴史や過程を丁寧に伝えていくことが大切である。

 

 

米軍統治下に小禄半島にあった米軍基地

 

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*1:小野尋子、清水肇、池田孝之、長嶺創正「戦後の沖縄集落の住民によって継承された民俗空間及び集落空間秩序の研究一沖縄県那覇市小禄村地区の被接収集落の変遷および再建過程を事例として」(日本建築学会計画系論文集第618号,49−56,2007年8月) p. 51