現在の那覇市はとても広い。
旧小禄村
戦前の小禄村
那覇市歴史資料室収集写真/戦前
垣花の尋常小学校
写真集那覇百年のあゆみ P.96
那覇市歴史資料室収集写真/戦前
1931年 海軍小禄飛行場建設が始まる。1回の飛行場用地は、大嶺、当間の非居住地域を接収したのみであったが、その後、大嶺・当聞・宮城・安次嶺の全域、赤嶺・金城のほぼ全域、鏡水・高良の大半、具志・田原・宇栄原の一部が日本軍によって収用された。
小野尋子, 清水肇, 池田孝之, 長嶺創正「戦後の沖縄集落の住民によって継承された民俗空間及び集落空間秩序の研究 : 沖縄県那覇市旧小禄村地区の被接収集落の変遷および再建過程を事例として」2007 年 72 巻 618 号 p. 49-56
1945年6月4日、沖縄戦。米軍が鏡水海岸から上陸し小禄村のほぼ全域が占領される。人々は収容所に収容される。その後、字小禄・田原・宇栄原は開放。1947年8月、具志・宮城・高良・赤嶺の帰村も始まる。
戦前の学校のおもかげはなく・・・
1953年2月、銃剣とブルドーザーの土地接収が始まる。住む場所を奪われた住民の生活は人口密集地でのトタン屋根暮らしを強いられ悲惨であった。人々は激しく抗議する。
小録村村長長嶺秋夫から1953年1月27日に琉球政府に提出された陳情書戦前の小禄村は総面積3,099,846坪を所有しており、12部落で人口9,000人戸数1,800戸で、文化、経済、教育、その他のあらゆる側面で恵まれ県下でも屈指の裕福農村でありましたが、図らずも去った太平洋戦争の結果、戦前所有していた土地の70,45%(2,182,709坪)を軍用地に使用され、現在ではわずか1,924,277坪しか残されておらず、あまつさえ、人口は14,000に増加し、余儀なく密集生活をしているのであります。
1953年12月5日、米軍は更なる土地接収の為具志に武装兵を出動させ、2.4万坪を追加接収した。それが那覇空軍・海軍補助施設。
1972年時点での沖縄の米軍基地
沖縄県『米軍基地環境カルテ』(2017) より作成
那覇空港を含み、小禄半島は、そのほぼ全域が米軍基地として接収された。
- 那覇海軍航空施設 (滑走路含む)
- 那覇サイト (ナイキ・ハーキュリーズのミサイルサイト)
- 那覇港湾施設 (那覇軍港)
- 那覇サーヴィス・センター (現在は返還され武道館に)
- 那覇空軍・海軍補助施設 (航空自衛隊 那覇基地と住宅地に)
- 那覇ホイール地区 (陸上自衛隊 那覇駐屯地に)
住民から新たに強制接収した土地はサバービアな米軍住宅となった。
那覇市歴史資料室収集写真/戦後/現在の金城附近
那覇市歴史資料室収集写真/戦後/現在の金城附近
那覇市歴史資料室収集写真/戦後/現在の金城附近。
米軍は、小禄半島があたかもテキサスやカリフォルニアのようなサバービアのための広大な大平原であるかと勘違いしていたのだろうか。
かたや住民は超過密のトタン屋根生活をしいられた。
そして 1974年、不発弾爆発事故がおこる。
「沖縄戦後史」P154(1974)
那覇市歴史資料室収集写真(1974)
そして再び、「沖縄返還」という言葉で、日本の軍隊の基地となる。
復帰後の自衛隊配備は日米間政府の了解事項だった。(1972/05/22)
『写真でつづる那覇戦後50年 1945-1995』p. 52
自衛隊が譲り受けた基地面積は戦前よりもさらに拡大していたという現実が発生する。
沖縄に返還された地所は、実際にはわずかの面積であった。しかも十数回にわたっての分割返還。那覇空軍・海軍補助施設は1986年10月31日に返還が完了する。
しかし、
大きな経済効果だ。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■