第1889航空工兵大隊 (1889th Engineer Aviation Battalion)

陸軍工兵隊 (The Corps of Engineers)

第1889航空工兵大隊

(1889th Engineer Aviation Battalion)

人種隔離された黒人部隊

沖縄戦当時、沖縄に駐屯した米軍の中には、実際にはかなりのアフリカ系アメリカ人がいた。沖縄守備隊第32軍は、人種差別の知識はあっても、その根深い人種隔離政策 (segregation) についてはあまり認識がなかったのだろう。「前線で死ぬのは黒人兵」といったプロパガンダをバラまき、米軍兵士の嘲笑をかったという。これは、アメリカの組織的人種差別の形態を知らないことからくる基本的な間違いである。アメリカのレイシズムはもっと根源的に根深いものであり、黒人部隊は太平洋戦線でも多く配備されたが、彼らは人種隔離された部隊 (segregated unit) として、非戦闘部隊 (non-combat role) の後方補給基地での任務に携わった*1

 

沖縄県公文書館には、米軍記録としてのおびただしい量の沖縄戦写真が所蔵されているが、そのなかにアフリカ系アメリカ人部隊を明記する写真は極めて少ない。彼らは、当時、colored、あるいは negro と呼ばれていたが、negro で検索して、現時点でわずか5枚、colored で1枚のみ。これは今更ながら全く驚くべきことで、軍におけるレイシズムの強烈さを示すもう一つの驚異的な事例である。

 

最前線から後方補給基地にいたるまで沖縄の米軍をカメラに収め続けた撮影隊は、完成する飛行場の状況は細かに記録しても、建設に関わる黒人部隊に注目することはなかった。

 

しかし実際には、陸軍航空工兵大隊の三分の一は黒人部隊だった。

これらの 800人部隊は 1940年から1945年にかけて海外に飛行場を建設した。彼らは特別に訓練された部隊であり、あらゆる戦域で飛行場を建設、隠蔽、維持、防御することを任務とした。戦争中に任務に就いた 157の航空工兵大隊のうち、48の部隊は「カラード」といわれた分離部隊だった。

A look back at black aviation engineer units of World War II > Air Force > Article Display

 

とくに太平洋戦線に多く配備された。

30の工兵航空大隊が中国、インド、ビルマおよび太平洋戦域に配備された。当時軍は人種隔離されていたため、部隊のうち13部隊には白人兵士が、17部隊には「有色人種」の兵士が配置されていた。

1944-1946 – Scrapbook compiled by an African-American soldier

 

Underrepresented

しかし、第1889航空工兵大隊としての写真記録は、沖縄県公文書館でみたところ1枚もでてこない。

 

記録が少ないという意味でも、この第1889航空工兵大隊のエンジニア、メトカーフによるスクラップブックは貴重である。しかし、このスクラップブックにすら、黒人部隊の写真は少ない、と解説にもある。

 

The first Negro Battalion in the Pacific to get this award

 

著者は赤字で「太平洋戦線で、この賞を受賞した初めての黒人部隊」と記している。

 

小禄糸満の飛行場建設

スクラップブックにはまた第1889航空工兵大隊のルートが記録されている。小禄の飛行場建設から、糸満の小飛行場建設へ、という感じだろうか。那覇飛行場建設や那覇周辺の写真がサンプルからもよめる。

 

The route of the 1889th

 

那覇飛行場の建設 (右) と 国道 (3 or 5?) 号線の建設 (左)。那覇から糸満までは3号線だが、5号線と記入されているように見える・・・。

 

慰安婦の写真

また、日本軍に取り残された女性たちの写真も。

They were left behind by the Japs. Hussl (hustle?) was their trade.

「彼女たちは日本軍に取り残された。ハッスル(身を売る)のが彼女たちの職である」

 

日本軍の束縛から解放されても、まだまだ彼女たちは囲い込まれ自由にはなれなかった。女性たちの暗い表情がそれを物語っている。

 

戦利品の発送

銃剣の持ち帰りの許可書

 

バイヤーの解説

 

Price: $950.00

1944~1946年 – 第二次世界大戦中に西太平洋全域で飛行場の建設と修理を行った工兵航空大隊の一員として勤務していたアフリカ系アメリカ人の兵士によって編纂されたスクラップブック
T/4 (技術者 4 級) フレッド B. メトカーフ
西太平洋: 1944 ~ 1946 年。手作りアルバム。

この 54 ページの手作りスクラップブックのサイズは約 9 インチ x 12 インチで、T/4 (技術者 4 級) のフレッド B. メトカーフが、おそらく部隊事務所から入手した籐ひもとマニラ ファイル フォルダーを使用して組み立てました。この本は、第1889工兵航空大隊 (黒人部隊) のフィリピン、グアム、沖縄への派遣を記録しており、そこで日本への進撃に不可欠な最も重要な陸軍空軍飛行場のいくつかを建設し、修理しました。これには、写真、サービス雑誌や新聞の切り抜き、漫画、ブロードサイド、文書、通貨および財政項目、および数字の翻訳の手書きのページなど、120 近くのアイテムが含まれています。1点を除いて全てアルバムページに貼り付け済みです。アルバムには、特に端の周りに多少の摩耗が見られ、籐の麻ひもが切れています。

このスクラップブックのほとんどのアイテムは当時のもので、軍隊に配布された軍務新聞、雑誌、パンフレットからの切り抜きです。興味深いことに、数多くの写真があるにもかかわらず、メトカーフ自身の写真は一切含まれておらず飛行場を建設している彼の部隊の写真は2枚だけでした。代わりに、彼の写真は彼が興味深いと思ったものです。

内容の一部は次のとおりです。

  • 切り抜き:
  • メトカーフが「1889 年のルート」とキャプションを付けた「沖縄フィナーレ」と題された小さなキャンペーン マップ
  • 沖縄人の小さな画像には、「ほとんどの沖縄人は日本軍の衣装を着ている」とキャプションが付けられていた
  • グアム警察署とグアム出身の警備員 2 人の大きな画像
  • 兵器の廃棄、橋頭堡の建設、食品検査などの活動に従事する黒人兵士の画像(必ずしも 1889航空工兵大隊のものとは限りません)。
  • グアムのB-29爆撃機
  • 「Glamour on Guam」というタイトルのパンフレットに掲載されている魅力的な若いグアマニア女性の画像 11 枚
  • 「This Is The Engineers」というタイトルの 5 枚のパネル画像。アフリカ系アメリカ人の兵士がタレント ショーやユニット バンドのコンサートで演奏しているように見えます。
  • 裸だが恥ずかしそうにポーズをとる黒人女性の小さなキャプションなしの画像
  • メトカーフが自身の思わせぶりなキャプションを追加したきわどい漫画 2 つ
  • 写真:
  • メトカーフさんは沖縄からの神社の写真2枚に、「彼らがハリ・カリ[切腹]をする場所/人生の失敗の代償を払うためにここに行く。これは家名に恥をかかないようにするためです」
  • 沖縄の馬車の写真 1 枚 沖縄の那覇飛行場と国道5号線で作業する1889航空工兵大隊の写真 2 枚
  • 第10軍への日本の降伏文書の写真
  • メトカーフさんは台風による破壊の写真2枚に「時速150マイルの風で地獄のように荒れていた/台風」とキャプションを付けた。
  • 4人の魅力的な「慰安婦」の写真1枚に、メトカーフは「彼らは日本軍に置き去りにされた/フーゼルは彼らの商売だった」とキャプションした。
  • 沖縄の郵便為替と配給簿
  • 日本の戦時公債と日米の各種占領通貨
  • 1946 年 1 月 31 日に第 933 工兵航​​空連隊 (第 1889 および他の 3 つの工兵航空大隊の上位司令部) によって発行された The Flying Dozer ニュースレターの最終号
  • 第933大隊の4大隊に贈られた大判の「功労賞」の賞状。メトカーフは第1889大隊を「有色」部隊と認定し、「この賞を獲得した太平洋初の黒人大隊」という誇らしげなキャプションが付けられている。
  • メトカーフに「日本軍銃剣」を持ち帰ることを許可する文書

状態はとても良い。商品番号010057

 

陸軍航空隊は、1940 年と 1941 年に欧州戦争が拡大するのを観察し、米国が紛争に巻き込まれた場合に敵の占領した飛行場を占領し、修理できる部隊である工兵航空大隊を開発しました。それは、たとえ過酷な戦闘地域であっても、飛行場の修理、再建、建設ができる自己完結型の組織として設計されました。この施設には 27 人の工兵士官と 761 人の下士官が乗組し、146 台のトラクター、ブルドーザー、スクレーパー、グレーダー、ガス ショベル、ローラー、各種ミキサー、コンプレッサー、ドリル、アスファルトとコンクリートの設備、岩盤破砕機、引き綱、ポンプを備えていました。これらのユニットが起動すると、建設経験のある男性がこれらのビレットに向けて誘導されました。

30の工兵航空大隊が中国、インド、ビルマおよび太平洋戦域に配備された。当時軍は人種隔離されていたため、部隊のうち13部隊には白人兵士が、17部隊には「有色人種」の兵士が配置されていた。第 1889 連隊は 1943 年 4 月にアリゾナ州のデービスモンサン飛行場で編成され、1944 年 5 月に太平洋に配備され、1946 年 2 月に沖縄で活動停止しました。

メトカーフと同様に四級技術者は専門家であり、戦闘兵器下士官ではなかった。彼らは「軍曹」と同等であり、「軍曹」と呼ばれていました。

慰安婦、またはイアンフは、日本軍によって性奴隷として強制された若い女性と少女でした。戦時中、日本軍は公式的かつ組織的に占領地で若い女性や少女を捕らえ、「慰安所」売春宿に奴隷化し、そこで日本兵の「慰め」として性的満足を提供することを強制された。

(For more information see, Craven and Cate’s Aviation Engineers in Europe, Africa, and the War with Japan in The Army Air Forces in World War II, “CBI Order of Battle; Corps of Engineer Units” at cbi-history.com, “TME Looks Back: African-American Engineering Battalions in the Pacific Theater” at the Society of American Military Engineers website, and “Japanese Military and Comfort Women” at the Asian Women’s Fund website.)

見落とされがちだが非常に重要な太平洋戦争の側面をアフリカ系アメリカ人の兵士の視点から記録した素晴らしいスクラップブック。

非常に希少です。出品時点では、同様のエンジニア航空大隊スクラップブック (黒または白) は他に販売されていません。Rare Book Hub によると、オークションに出品されたものはありません。OCLCは、工兵航空大隊の出版物とエフェメラを含む陸軍大学が所有する2つの個人論文コレクションを特定しています。同様のスクラップブックが含まれる可能性があります。

1944-1946 – Scrapbook compiled by an African-American soldier while serving as a member of an Engineer Aviation Battalion that built and repaired airfields throughout the Western Pacific during World War Two | T/4

 

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*1:アフリカ・ヨーロッパ戦線では、タスキーギ・エアメンとよばれる戦闘機乗りやバッファロー・ソルジャーと呼ばれる歩兵部隊、一部、戦闘部隊としてのアフリカ系アメリカ人部隊が活躍した。