6. 日本陸軍 首里秘密飛行場(石嶺飛行場)

陸軍 首里秘密飛行場(石嶺飛行場)

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日本軍は沖縄島に特攻用の四つの秘匿飛行場の建設を予定した。しかしそのどれもが未完成のまま放置された。

4     陸軍 沖縄南飛行場(仲西飛行場・城間飛行場)[現米軍牧港補給地区]   
5     陸軍 沖縄東飛行場(西原飛行場・小那覇飛行場)[後の米軍与那原飛行場] 
6     陸軍 首里秘密飛行場(石嶺飛行場) 
8     海軍 糸満秘密飛行場(海軍与根飛行場)

 

1994年夏頃 - 石嶺飛行場の建設

陸軍首里秘密飛行場については、今も秘密なのか、あまり多くの記述を見つけることができない。基本的には他の小型特攻機用の飛行場 (南・東) と同様に、1944年夏ごろから工事を始めたが、未完成のまま3月に工事は中止・放棄されたと考えられている。

 

場所は、那覇の北にある首里石嶺3丁目~4丁目のあたりとされている。かつて3丁目に「一つ墓」(ティーチバカ) があったが、この石嶺飛行場建設の際に造成され破壊されたと記されている *1

 

しかし、その時期の空中写真では、スペック限界まで拡大しても、秘密すぎて? 滑走路がどこにあるのか、造成の跡すら判然としない。建設中のはずだが。

サンエー石嶺店あたり (3丁目) の場所に注目。南にまっすぐ南下している道が今の「ゆいレール」のラインになる。

 

1945年5月 - 石嶺の激戦 

当然ながら、首里へと至る石嶺はチョコレート・ドロップと呼ばれる激戦地となる。周辺の複雑な地形を利用した反斜面陣地の作戦で抵抗を続けるが、石嶺周辺が米軍に落ちるのは 5月20日ごろ。

 

米軍補給基地「第25人員補給基地」

石嶺飛行場があったかもしれない場所あたりが、年末12月ごろの写真では、土地が広く削られたように見える。しかしこれは滑走路ではない。米軍のテントが密集した地域になっている。

 

米軍占領後の石嶺3-4丁目あたりの様子はがらりと変わっている。米軍は、ここでも日本軍が放棄した飛行場建設跡を軍事施設にしたのだろうか。1月の空中写真では見えていなかった「飛行場跡らしきもの」が横長な形で見えるような気がするが、滑走路としては使用していないようだ。また右側にはかなり大きな軍施設が建設されている。

石嶺飛行場 ... 首里石嶺に建設中、戦争となり飛行機は飛ばなかった終戦後、国府軍 (ママ) が駐屯。

那覇市沖縄市の戦跡と基地』(2008年) p. 7.

えっ、国府軍とは??? 

 

そういう時には、米軍が1945年8月末日に作成した機密地図を参照してみる。

まず、現在の241号線は軍道5号線。

  • 36.    53RD MEDIUM PORT T.C.
  • 37.    ARMY HOSPITAL SITE #14 375TH STATION HOSPITAL
  • 38.    PERSONNEL CENTER AND 25TH REPLACEMENT DEPOT

 

右側に大きく建設されていた軍施設 (現在の中央児童相談所のあたりか?) は、25th Replacement Depot (第25人員補充所) となっている。

 

第25人員補充所は、戦争が終わった後、帰国する米兵の事務処理を担当。五号線沿い (現241号線) の、チョコレートドロップヒルやソートゥースリッジの激戦地近くにあったという。地平にまっすぐ見えるのが五号線か。

 

退役軍人ロバート・ヘトリック伍長の記録写真から

ロバート・ヘトリック伍長のアルバムからの写真。第25補充補給所 (the 25th Replacement Depot) は、戦争が終わった後に米国に帰還する GI の手続きを担当しました。キャンプは、有名なチョコレート ドロップ ヒルとソートゥース リッジの戦場近くの国道5号線沿い、首里の北東に位置していました。彼の写真には、壁、机、さらには流し台まで備え付けたテントなど、キャンプでの生活の様子が写っています。

25TH REPLACEMENT DEPOT 1945-46

向こうに見えるのが五号線か。糸満小飛行場のように、直線道路を小飛行場として兼用・併設している可能性もあるので、まっすぐな道路が滑走路である可能性がある。あるいは掩体壕などの施設そのものを米軍が補給施設として拡張した可能性もある。

 

軍道5号線とソートゥース・リッジの近くの第25人員補充所。場所的には、石嶺飛行場(予定地) があったかもしれない場所は道路の左側かもしれない。

25TH REPLACEMENT DEPOT 1945-46

 

基地はいったん建設されれば、何度も再利用されるのであるが、陸軍首里秘密飛行場は、未完成だったため、幸いなことに小型特攻機を飛ばすこともなく、また米軍によって恒久的な米軍基地とされることもなかった。牧港や与那原の日本軍の秘匿飛行場よりも、さらに中途で工事が止まったからかもしれない。

 

また、戦争時のどさくさにまぎれて強制接収したことを根拠として、戦後も「国有地」だと主張することもなく、旧地主の所有権が認められた。

 

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