海軍 石垣島南飛行場「平得飛行場」
日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。そのうちの3カ所は石垣島に計画された。
宮良秘密飛行場をあわせると合計16カ所となる。
1943年、用地の接収
1943年、平得飛行場 (海軍南飛行場) 用地の接収。
海軍の新飛行場は大浜村と石垣町平得にまたがる広大な地域に計画され、正式名称は海軍石垣島南飛行場、通称平得飛行場と呼ばれていた。用地確保は昭和18年(1943年)9月頃から始まっていた。土地はほとんど農耕地で地主134人、382筆 74万7,157㎡であった。接収に当たっては軍事上の秘密から関係町村長、部落会長、その他の代表者を八重山警察署に招集して説明会がもたれただけで、軍の一方的な指示で村役場において書類が作成された。土地代金等は134人の地主に2割が現金、8割は強制預金の証書で支払われた。地主の意見は一切無視された。
沖縄県「旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過」
1944年1月8日、平得飛行場 (海軍南飛行場) の建設が始まる。
… まず工事請負いの責任者には本土業者の原田組が当たった。人夫はほとんど地元から雇っていたが、やがて朝鮮人が百人程送り込まれてきた。そして一九四三年(昭和十八年)二月頃から、国家総動員法による平得海軍飛行場建設就役のために、八重山郡下に及ぶ徴用令が発動されたのであった。
… 原田組が工事を担当していたが、中に朝鮮人労働者がたくさんいて、大きな金槌を細い柄をたわませて、「サニヤー、サニャー」とかいうようなかけ声をかけて槌を振る。単調ではあるがその音が規則正しく響く。時々厳しい監督がやって来て、口ぎたなく罵り、鞭でびしゃりとやる音が今も私の耳に残っている。「生かさず、死なさずに使う」と言ったのはこのことと、実にひどいと思った。
1944年11月に日本軍が作成した南西諸島航空基地一覧図。平得飛行場は「第一石垣島」として記されている。三本の滑走路のうち、西側は未着工、中央は建設中、海岸に並行している一本のみが「完成」とある。
1944年10月3日に米軍が空中写真から制作した爆撃用資料。
Records of the U.S. Strategic Bombing Survey = 米国戦略爆撃調査団文書
1944年10月9日、八重山飛行場工事徴用の沖縄本島民帰途遭難、約500名の議牲者*1
10月10日、十・十空襲
英国海軍太平洋艦隊による攻撃
日本軍の飛行場がある先島諸島は連日の空襲をうけた。
前年の空襲とは異って、夜明けから日暮まで数十機が交互に飛来し、猛爆撃を展開した。空爆は衰えるどころか、むしろ日ましに激しくなっていくばかりである。大浜部落は海軍飛行場を守るためにその周囲には陣地があったので、大変危険であった。実際あっちこっちに爆弾が落ちた。連日の激しい空襲のため生産も殆んど行なわれなくなった。そうした中で、どの家でも、夜になると母親は明日の食物の準備に大変であった。
英国太平洋艦隊第57任務部隊 オペレーション・アイスバーグ
Framed Print of Bombing of the Ishigaki airfield in Okinawa by a British fleet carrier. June 1945
英国艦隊による沖縄石垣飛行場爆撃の画像。 1945年6月
現在の「平得飛行場」
平得飛行場は戦後1956年から2013年まで石垣空港として使用された。
2015年3月7日、石垣空港は白保に移転。
旧石垣空港の滑走路は現空港より500m短い1500m。ジェット機が離着陸するのには、ギリギリの長さでした。そのため「ロケットスタート」という独特の離陸が、”石垣名物”として、航空ファンを中心に知られていたのです。
石垣空港は、平成25年3月7日に供用を廃止しました。
旧空港跡地は石垣市役所新庁舎や病院などの建設が予定され再開発が進む
現在の石垣空港は、2013年、白保飛行場の北側に新設された。
新石垣空港は、石垣島の東側に建設され、平成25年3月7日に開港しました。新空港は、2,000mの滑走路を有し、旧石垣空港の重量制限等の課題が改善されています。
「平得飛行場」の国有地問題
日本軍による強制接収
… 土地代の支払い業務は村役所が当たり、土地代、建造物の補償金は二割を受領し、残る八割は強制的に鹿児島興業銀行八重山代理店に定期及び当座預金をさせられ、証書のみ渡された。しかし多くの部落民が二割の現金をも、戦争に勝利するためと勧められ預金させられたりした。この預金はいまなお凍結のままになっており、実質的には財産は没収されたかたちになっている。地主の中には軍の甲戦備の宣言が下り、支払い業務が停止され、証書さえ未受領の方さえいる。
米軍統治下では
日本軍が戦時に強制接収した土地は、戦後、米軍政府の土地となり、また施政権移行後は日本の国有地となった。軍用地使用料が支払われるどころか、旧所有者は、借地料を払って小作を続けなければならない。人々は土地の返還を求め続けてきた。
戦後、米軍が土地所有権を確定する目的で行った「土地所有権認定事業」 では、旧日本軍に取得された土地のほとんどは、旧地主の所有権が認められず、日本の国有財産として米国が管理する土地となりました。そして復帰とともに日本政府に移管され、現在に至ります。
現在の「国有地」37haは「払い下げ」られたが・・・
平得飛行場用地は戦後も国有地のままで、地主らは52年ごろから、沖縄を統治していた米国民政府と賃貸借契約を結び、借地料を払って耕作しながら土地の返還を求めてきた。87年、戦後に石垣空港がつくられた北東滑走路部分を除く国有地約37ヘクタールは耕作者らに払い下げられ、山田さんの農地も戻ってきた。
しかし残る 22haの「国有地」はいまもそのまま返還されず、何かあると、このように軍事転用のために利用する案が浮上する。
日本軍が戦時に強制接収した土地が返還されないままでは、沖縄の戦後、沖縄の返還は今も完了していないということだ。
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