15. 陸軍 石垣島飛行場(白保飛行場)

陸軍 石垣飛行場(白保飛行場) 

日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。そのうちの3カ所は石垣島に計画された。

13. 海軍石垣島南飛行場(平得飛行場・大浜飛行場) 

14. 海軍 石垣島北飛行場(平喜名飛行場・ヘーギナ飛行場)

15. 陸軍 石垣島飛行場(白保飛行場) 

16. 石垣島 宮良秘密飛行場

※ 宮良秘密飛行場をあわせると合計16カ所となる。

 

1944年 - 白保飛行場、土地の接収と建設

防衛研究所収蔵・第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」(昭和19・11)

 

昭和19年(1944)6月、白保で陸軍飛行場の建設が始まった。用地確保の方法は海軍飛行場の場合と同様に一方的な通告による接収であった。作業は昼夜兼行の緊急で推進され、8月下旬には50㍍×2,000㍍の主滑走路が完成し、引き続き補助滑走路、掩体施設(駐機場)などの工事は続行された。沖縄本島の「十・十空襲」に続いて台湾沖で展開された航空戦の延長で、同年10月12日、石垣島は初空襲を受けた。

沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書」(平成16年) 40頁  

 

白保飛行場として土地接収がなされない前までの、嘉手苅、東流手刈、赤嶺原、野地原、芋原、与那原、崎原等の土地は、白保部落ではもっとも肥沃な土地であった。… 軍は砂糖きびや芋などが植えられている畑に測量の杭をどんどん立てていった。… 自分の作った物も収穫できないとは情ないことだ、とそういう意味のことを言ったら、軍は日本刀をガチャガチャならしながら威嚇し、あげくのはては蹴る殴るなどの暴行を加え半殺しにした。そのような暴行をうけたのは十数人ぐらいいた。みんなの集まっている面前でそのようなことを平気でした。… 土地代の支払いにもそのようなでたらめさがあらわれている。… だが戦後二十八年になってもその債券や預金証書は凍結されたままである。土地代の完全支払いも済まされないのに国有財産として登録されている。全く国は泥棒と同じではないか。そこで私たち地主は、国が強制的に接収した白保飛行場の土地を返還してほしいと今国に要請している。要請は1951年からはじめ、1973年のいまもなお続けている。

沖縄県史・八重山 ( 1 ) 「白保飛行場の土地接収」- Battle of Okinawa

 

飛行場建設の徴用 (大浜村青年学校々長)

真夏の照り輝く太陽の下で、汗まみれにツルハシをふるう生徒、モッコで士砂を運ぶ婦女子、馬車の往来、人海戦術の飛行場建製でした。たしか壮年団、婦人会、中学生、国民学校の生徒たちを含めると1000人ぐらいはいたと思います。石垣から白保への道は、朝夕、飛行場建設に徴用された人たちでいっぱいでした。七月に入り、「サイパンで日本軍全滅」とニュースが伝えられたが、軍部は「神国日本がまける筈がない。いま敵を引き寄せて一挙に勝敗を決するのだ。」と豪語して、苛酷なほどに飛行場建設のために、徴用人をこき使うのでした。わたしも、戦争が終る前まで、日本国の神州不滅論を生徒にとうとうと説き、励げましていました。そうしたら二、三日で終戦となりました。あの時の気持は複雑怪奇で自分でどう整理していいかわからない状態でした。今考えると恥しい、おかしい話ですが、ほんとにそう思っておりました。終戦となり、もう一度教職に就こうとは思いませんでした。軍隊の手先となり、若い青年をだまして二度と教地に立つことができるのかと毎日良心の呵責をうけ、とうとう教員をやめることにしました。

沖縄県史・八重山編 ( 1 ) 「青年学校生徒の白保飛行場建設」- Battle of Okinawa

 

1945年3月26日 - 沖縄戦、最初の特攻隊「伊舎堂隊」

1945年3月26日未明、石垣島出身の伊舎堂用久大尉ら誠第17飛行隊と独立飛行第23中隊、10人の若者が白保飛行場からとびたった。沖縄戦で最初の特攻といわれている。計31名が石垣島の飛行場からとびたった 。

宇都宮飛行学校時代 右が伊舍堂さん

伊舍堂さんは午前5時50分ごろ、慶良間諸島沖の機動部隊に突入して亡くなりました。第8飛行師団は空母1隻を撃沈し、2隻の空母と1隻の戦艦に被害を与えたと発表されました。しかし、連合軍側の記録には、この日に艦艇の被害があったとは記されていません*1

死の間際も家族に会わず 沖縄戦、ふるさと石垣島から最初に出撃した特攻隊長 - 未来に残す 戦争の記憶 - Yahoo! JAPAN

 

3月26日開始された慶良間(けらま)列島海域への特攻作戦は、沖縄本島石垣島宮古島から出撃しましたが、4月1日沖縄本島に上陸後は、九州及び台湾から出撃するようになりました。

知覧特攻平和会館 | 航空特攻作戦の概要

 

石垣島飛行場への爆撃

先島群島への攻撃は英国艦隊が主導、宮古八重山の島々に連日の攻撃を行うようになる。それ以降、石垣島の飛行場が航空作戦に活用されることはなくなっていった。

 

 

米海軍と英国海軍との連携はけっして簡単なものではなかったが、しかし、日本の「特攻」による suicide bombing (自爆攻撃) を抑えるため、先島群島を封じ込めるという目的は明確だった。

But the task itself was clear: Sakishima Gunto had two major islands, Ishigaki and Miyako. Each island had three established airfields. These were to be kept out of action as much as possible

しかし、タスク自体は明確だった。先島群島には、石垣島宮古島という2つの主要な島があり、各島にはそれぞれ3つの飛行場がある。これらが、可能な限り実行不能な状態に保たれなければならないということだった。

Armoured Aircraft Carriers

 

昭和20年(1945年)3月26日、白保飛行場から特攻隊10数機が出撃した。同時に、沖縄本島に上陸した米軍に呼応して、イギリス艦隊が艦砲と艦載機で宮古八重山の島々に攻撃をかけてきた。空襲は4月~6月と続き、石垣島の飛行場が航空作戦に活用される機会はなくなっていった。

沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書」(平成16年) 40頁  

 

1945年4月15日 - 「石垣事件」

そんななか、日本の戦後を揺るがす「石垣事件」かおこる。

 

連合艦隊は、日本陸軍「白保飛行場」を Miyara Airfield 「宮良飛行場」とよび、海軍飛行場「平得飛行場」を Ishigaki Airfield 「石垣飛行場」と呼んでいたようだ*2。下の写真は米海軍による「宮良飛行場」への攻撃。その滑走路の形状から、「白保飛行場」であることがわかる。

 

The caption reads: "Miyara Airfield on Ishigaki, knocked out by continuous attacks of planes from [U.S. Navy] Task Unit 32.1.3. Credit: USN  Date: June 1945

Pacific Wrecks - Miyara Airfield

 

米海軍作戦参謀部は、石垣島基地化において、Ishigaki Airfield ( 日本海「平得飛行場」) は艦載機の中継地に、Miyara Airfield ( 日本陸軍「白保飛行場」) は重爆撃機や戦闘機に適しているという独自報告書を出している*3。結局、アイスバーグ作戦で当初計画されていた石垣島の占領と基地化は変更され、4月後半には沖縄島に飛行基地を集中化させる方向にシフトする*4が、その沖縄島の占領を「特攻攻撃」から守るためにも、宮古島石垣島にある日本軍の6つの飛行場を破壊し無機能化し続ける必要性があった。

 

こうして先島諸島の日本軍飛行場を標的とした爆撃が連日続けられているなか、4月15日石垣島の両飛行場を空爆していた航空戦隊 VC-97 アベンジャーズが、のパイロット、ヴァーノン・テボ中尉、ウィリアム・フランク・ウォーターズ・ジュニア中尉、砲手のロバート・タグル・ジュニアが、撃墜され、大浜近くの水域にパラシュート降下、捕虜となるが、尋問と拷問の後、処刑された。

左から、彼の犬「スナッチ」を抱えているロバート・トグル、バーノン・テボ、ウォーレン・ロイド、3人は石垣島日本兵によって捉えられ、処刑された。

USS Shipley Bay - Ishigaki Memorial

 

この石垣島事件では、1948年にアメリカ軍横浜裁判で海軍警備隊の46人が起訴され、41人が死刑判決を受け、うち7人の死刑が執行された。死刑判決をうけた41人の中には鳩間島出身の当時17歳の少年もいた*5

 

現在の「白保飛行場」

旧日本軍強制接収値の国有地問題

1944年に日本軍によって強制接収された白保飛行場の土地は、現在も「国有地」のまま返還されていない。白保飛行場における国有地面積は684,000平方㍍で、耕作者が借地料を支払い農耕が行われている。

 

 

石垣島空港の建設計画

1979年、西銘順治県知事 (自民党推薦) 時代、海軍「平得飛行場」の滑走路を利用した旧石垣空港を移転するため、白保の海岸を埋め立て拡張する計画 (白保海上案) が発表された。住民への説明もなく、また白保の海岸に広がる珊瑚礁を破壊する行為として地元からの強い反対がありつつも工事は強行された。国際自然保護連合(IUCN) が総会で反対決議を採択するなど、世界的な抗議の声の高まりをうけ、1989年に埋め立て工事は中止された。その後、二転三転し、現在の新石垣空港 (カラ岳上陸案) に決定され、2012年に完成した。

 



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*1:3月27日の戦艦ネバダの損傷は翌日27日に読谷から出撃した誠第32飛行隊「武剋隊」の特攻攻撃によるもの

*2:Pacific Wrecks - Miyara Airfield

*3:保坂廣志『日本軍の暗号作戦』(2014年) 36頁

*4:1945年4月20日『後方で進む基地建設』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

*5:沖縄県史・石垣島 5 「石垣島事件の戦犯として」p. 187.