米軍 与那原飛行場 (Yonabaru Airfield)

 

1944年5月10日 - 日本陸軍 西原飛行場の建設開始

西原町(当時は西原村)の仲伊保から中城村の南浜にかけての軍による接収の端緒は 1944(昭和19)年、旧日本軍によるものだった。同年に飛行場建設のため土地は接収され、住民は徴用されて工事に従事させられたが、米軍の上陸による戦闘の激化─特に 1944(昭和 19)年 10 月 10 日の十・十空襲─のために日本軍は撤退し、1945(昭和 20)年 6 月 30 日から米軍によって滑走路が拡張整備された[西原町 2011]。

武井基晃「沖縄の戦後復興から高度経済成長の民俗学的考察 : 軍に接収されたシマ,戦災後の墓の再建を事例に」国立歴史民俗博物館研究報告 (2018)

 


1945年5月10日 - 米軍「与那原飛行場」の建設開始

1945年5月15日、米軍が確保、145建設大隊が建設を始める。

1945年8月15日、6,500フィート(2,000 m)の滑走路を備えた飛行場が完成する。

1947年6月30日、基地は解消される。

 

日本陸軍西原飛行場」から米海軍「与那原飛行場」へ。

 

Yonabaru, where a heavy bomber runway for naval aircraft was planned, was not captured until 14 May. Three months later, on 15 August , the airfield at Yonabaru became operational , with the completion of 6,500 feet of runway length. This runway, when completed, was 7,000 by 150 feet.

Engineers of the Southwest Pacific, 1941-1945: Reports of operations, United States Army Forces in the Far East, Southwest Pacific Area, Army Forces, Pacific - Airfield and base development, p. 392.

 

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1945年10月9日、台風で壊滅的な被害を受ける。

On Tuesday, October 9th, 1945, the island of Okinawa experienced what was said to be its worst typhoon in history. Peak of the storm was reached at mid-afternoon, but the wind continued almost unabated 
throughout the night. Ninety per cent of the island's facilities were damaged, and frail tent~huts were smashed everywhere leaving thousands on the island without quarters. Hundreds of men were injure·d, and a large number of men, most of them on barges or ships, were killed as vessels were dashed into reefs, into one another, or were swamped by mountainous waves.

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1957年2月27日、副総督は、与那原飛行場の敷地を海軍の飛行場ではなく海兵隊のヘリコプターの施設として利用するという決定を発表しました。米国の土地利用における最も保守的な政策と経済に従って、宮古島に滑走路を建設するための追加の土地の要件は取り消されました。

Foreign Relations of the United States, 1955–1957, Japan, Volume XXIII, Part 1 - Office of the Historian

 

1959年の返還

その際、「日本軍も米軍も、飛行場建設の際は埋土をして、その上に砂利やコンクリートを敷いて約 1m 位の厚みの滑走路を作った」[沖縄県土地調査事務局 1977]。このように厚く覆われたことは土地返還後の再開発でも大きな障害となった。

西原飛行場は、1959(昭和 34)年 2 月 27 日の突然の返還予告を経て同年 5 月 1 日に返還された。しかし飛行場跡地の復旧は、返還から 10 年経っても進まなかった。

武井基晃「沖縄の戦後復興から高度経済成長の民俗学的考察 : 軍に接収されたシマ,戦災後の墓の再建を事例に」国立歴史民俗博物館研究報告 (2018)

 

それ以降、現在に至るまで一帯には製油所を初めコンクリート工場などが誘致され工場地帯となっており、かつて肥沃さで知られた土地には今日、畑地も住宅もほとんど見当たらない。

武井基晃「沖縄の戦後復興から高度経済成長の民俗学的考察 : 軍に接収されたシマ,戦災後の墓の再建を事例に」国立歴史民俗博物館研究報告 (2018)

 

 

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