田井等収容所

 

第37海軍建設大隊が記録した田井等収容所

DISPLACED PERSONS. Natives of all sizes and ages are shown crowded into a sorting compound ot Taira , Rounded up as they roamed aimlessly about the countryside, they are questioned here by civilian and military authorities. Then, they are sorted for return lo vlllages or internmant. Tarps thrown over poles serve as living quarters for transients. Due to their inability to respond to challenges of sentries, compounds or guarded villages were the only safe places for natives at night. 

避難民。あらゆる体格や年齢の住民たちが田井等の選別場に群がる。田園地帯をあてもなく歩き回っていたところ一斉に集められ、ここで文民当局と軍当局から尋問を受けている。次に、彼らは帰国者または強制労働者に分類されます。ポールの上に投げられた防水シートは、一時的な滞在者の居住区として機能します。見張りの攻撃に応じることができないため、夜間に先住民にとって安全な場所はカンパンまたは米兵が警備する村だけだった。

第38海軍建設大隊メモリアルブックより p. 328.

 

Bilingual signs warn natives to slay away from Nago and nearby military installations. Nogo was principal city of this section and had a peacetime population of 10,000. Located half-way up the island, it was badly damaged by the First Marines when they made their invasion sweep northward.

二か国語の警告版は、島の住民に対し、名護や近くの軍事施設から離れるように警告している。名護はこの地域の主要都市であり、平時の人口は 10,000 人でした。島の中腹に位置し、第一海兵隊が北に侵攻した際に大きな被害を受けました。

《第87海軍建設大隊メモリアルブックより》

 

THE OTHER HALF lives on a plane all its own in picturesque village of Taira in the Nago sector of Okinawa. Here, life is simple and much time is spent visiting. Natives sit on sacks of soy beans (left). 

《第87海軍建設大隊メモリアルブックより》 p. 325.

 

NATIVE JAIL. Strikingly unlike "bastilles" Gls had known back home this simple, unoccupied jail for the village of Nakaoshi was nevertheless set up for the same purpose. Sign reads: "These people have broken the law and disgraced Nakaoshi."

住民の刑務所。米兵の故郷の「バスティーユ」監獄とは著しく異なるけれども、仲尾次村のこのシンプルで無人の刑務所は、同じ目的のために設置された。看板には「この人たちは法律を破り、仲尾次の名誉を傷つけた」と書かれている。

《第87海軍建設大隊メモリアルブックより》  p. 328.

 

島袋徳次郎さん証言

ある時、多野岳への攻撃を終えた多くの米兵が、避難先の前を通りました。その中の3名の米兵が、私の父をその場に立たせて身体検査をしたあと、そのまま連れて行きました。それは、1945(昭和20)年の6月だったと思います。

 

羽地村大川集落での避難生活は大変だったので、また3世帯が一緒になって山中での避難生活を始めました。そこには食べ物もなく、ソテツなどを発酵させて食べました。1番の御馳走はツワブキで、避難前から食べ慣れていたものでした。食料は、ラード(豚の脂)が少しあるだけで、他には米も何もありませんでした。また、馬を処理した後の皮とか爪などを拾って来て、一緒に避難している世帯の人たちに料理してもらったこともありました。避難小屋は簡単な造りなので、雨が降ると雨漏りがしました。そのため、避難小屋を修理しながら生活していました。そこにまた米兵がやって来て、食料を探しに行った兄さん(先輩)たちが殺されました。その兄さんたちの遺体は、木の葉で隠して埋葬しました。

 

当時、身体が丈夫で健康だと評判だった私の父は、米兵に裸にされ身体検査をされたあとに捕虜として連れて行かれました。それで、そのまま山中での避難生活を続けるのは大変なのと、捕虜となった父の情報を得るために山から集落に下りて行きましたが、そこで品物を横取りされる被害にも遭いました。


カンパン(労働者収容所)で事務職をしているお姉さん2人が、私たちに新しい避難先や父の情報を教えてくれました。川上集落の新島先生の家に住む場所を準備しているから、すぐに山を下りるようにと言われました。一方では「山を下りるな」という話もあり、山を下りると(スパイ容疑で)日本兵に殺されると言われていました。しかし、父がカンパンで元気に暮らしていると聞いたので、私たちは山を下りました。新しい滞在先は、避難小屋ではなく、雨も漏らない立派な家でした。そこに(収容所の父を除く)家族4名で暮らしました。そして、その姉さんたちが、「毎週土曜日に一緒に行こうね」と言ってくれたので、毎週、父が収容されているカンパンに行きました。
 

炊事班にいた父に面会すると、いつも食べ物を持たせてくれました。カンパンの中では、おにぎりも余るくらい豊富にあり、それを天日干しで乾燥させた味噌の原料や、砂糖や塩なども分けてくれました。また、アイスクリームの粉やお菓子なども貰いました。山での避難生活とは比べものにならないと思いました。カンパンの周囲には金網が張られ、監視が厳重でした。そのため、事務のお姉さんたちと一緒に面会に行きました。ある時、通路付近で煙草やお菓子を抱えたまま殺されている人がいました。私はかわいそうに思い、遺体を覆う布を取って見ようとすると、米兵が監視塔から見ているからダメだとお姉さんに止められました。当時は、カンパンに忍び込んだ人が米兵に射殺される事件が何度かありました。


収容所では、父に会うのを楽しみにしていました。山での避難生活と比較すると、子どもながらにも良かったなと思っていました。6月に山を下り、翌年1月までそのような生活が続きましたが、その間に父はマラリアに罹ってしまいました。その頃は、毎日のようにマラリア犠牲者の遺体がリヤカーで運ばれ、埋葬されました。中南部からの避難民も、みんな同じように埋葬されました。父もマラリアに罹ったので、カンパンから集落に帰されました。マラリアに罹ると高熱が出るので、普通の水ではなく冷たい井戸水を汲み、釣瓶(つるべ)に小さな穴を開けて、父の額に水をかけ続けました。それでも熱は下がらず、体温計でも測れないほどでした。その後には、父の身体にものすごい震えがきました。男性が2人がかりで押さえても、跳ね返すくらいでした。結局、父はマラリアの高熱で亡くなりました。父が亡くなったので、私たちの家族は田井等集落に帰ることになりました。


父の死後田井等集落へ
田井等集落に帰ってからの生活が大変でした。住む家はテント張りの小屋でした。そのため、暴風の時などは大変でした。私たち家族は、馬小屋の出入り口にテントを張って生活をしていました。馬小屋にも、那覇と北谷からの避難民が一緒に暮らしていました。田井等集落には多くの避難民がいて、どの家にも他の家族が住んでいました。その時は、父を亡くした寂しさよりも食べることで精一杯でした。母は、昔身につけた技術を生かして魚を買ってきてかまぼこを作ったり、魚を売って少しでも稼ごうと必死で働きました。子どもたちを飢えさせないために、母はとても努力していました。豆腐の注文があった時には、私も母を手伝いました。かまぼこ作りでは、魚をすり潰す機械を回しました。テント張りの家で2か年ぐらい暮らしたあと、現在の羽地小学校の近くに家を借りました。そこでも、母の手伝いをしながら暮らしました。行事がある時には、注文がたくさん入るので仕事が忙しくなりましたが、どんなに赤字になっても魚は東村や名護の漁民から仕入れていました。私たちも母の手伝いをしながら、豆腐やかまぼこなどを作りました。それには薪が必要でした。学校が休みの日に土曜日は1回、日曜日には2回、現在の羽地ダムがある山の上に薪を取りに行きました。当時はどこの家もみな同じです。それが子どもたちの仕事でした。また、豆腐を作るには良い海水が必要です。「潮汲み」といって、これも子どもたちの仕事でした。

いつまでも間借り生活では大変なので、私たちは家を建てるために、畑の土地を交換しました。こちらの特級100坪の土地と3級300坪の土地の交換でした。同じ田んぼの土地だからということで、承諾してもらいました。それから、茅葺きの家を作りました。そしてもう少し稼ぐために、豆腐やかまぼこ作りで出る残り物が餌にできるので、養豚を始めました。先輩たちに提供してもらい、豚を5頭飼いました。


 ある時、米軍の洗濯班に勤めていた方がパウダー(白い粉末)をもらって来ました。それは、「ふくらし粉」と書かれた容器の中身が移し替えられたもので、その粉がサーターアンダギー(砂糖天ぷら)作りに使われました。パウダーを1回分入れても膨らまないので、2回、3回と入れるとその後は大変なことになりました。1回目の天ぷらを食べた方は、今でも元気です。2回目の方たちも少し髪の毛が抜けたりしました。3回分のパウダー入りを食べた方々はすぐに亡くなり、集落にはその方々のお墓が並んでいます。「天ぷら中毒」によるものでした。洗濯班の方なので、米軍基地にも砂糖天ぷらを持って行きました。それを食べた米兵も亡くなりました。その死因は、「天ぷら中毒」ということでした。ふくらし粉と殺虫剤やノミ取り粉の取り違えだったと思います。それらを誤って調理に使ったことによるものでした。


田井等市の誕生
終戦直後の田井等には、人事監督署が置かれました。軍作業で働く労働者の必要人数について米軍からの命令を受けると、人事監督署が軍作業の割り振りをしました。また、米軍によって任命された民間警察を「CP」と言いますが、山などに避難している人々が避難先に物を持って行くと、CPは人々を山に避難させないようそれらを没収しました。人々が山に避難しなくなると、今度は夜間の外出を禁止しました。私たちも親戚の家へ行こうとしたら、「もう夕方だから行くな」と言われました。


 田井等集落に警察署と人事監督署が、市役所は親川集落の中に置かれました。避難民が集められた田井等収容所には、近隣の集落も合わせると6万人近くが収容されていました。当時、人口が集中したのは羽地村田井等でした。田んぼや食料もあったので、中南部からの避難地になりました。人々は、茅葺きの住宅などを建てて「オールカンパン」(一般人の収容所)からの移動後は、そこで生活を始めました。中南部からの避難民は、集落内の空き家に住んでいました。そのため、家の主は自分の家であっても入れず、納屋や他の集落の空いている場所を借りて生活しなければなりませんでした。自分の家なのに入れない、そのような状態でした。避難民の人々は、家や食料もみんな米軍から貰ったと言っていました。家や食料を返してほしいと要求すると、CPや人事監督署に訴えると言われました。ある家主は、仏壇のあるところだけは空けてくれと避難民に頼みました。そうでなければ家を全部壊すと強く言って出たので、一番座だけは空けてもらい住めるようになりました。那覇中南部では戦争で建物が破壊されたので、避難民は、故郷に帰る時に集落の家から床や戸などを持ち帰りました。それで、田井等には空っぽになった家がたくさんありました。

 

若い世代に伝えたい事
戦争はもう絶対にダメです。今日でもいろいろと問題があって、外国でも絶えず戦争をやっています。戦争に関係のない子どもたちまでも、みな犠牲になっています。絶対に戦争はやってはいけないという事です。

 

島袋徳次郎さんは、沖縄県経済農業協同組合連合会に約33年間勤務しました。退職後は、地域の交通安全指導員を務め、長年にわたる地域活動への貢献により2017年沖縄県交通安全協会から表彰を受けました。また、地域の記録である字誌『田井等誌』の編集においては、副編集長として地域のネットワーク作りに尽力されました。

「田井等市」と私の戦後 – 戦世からのあゆみ

 

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