福地小飛行場

福地小飛行場

 

沖縄戦のあいだ、米軍は20あまりの cub airstrip 軽飛行機用の小飛行場を建設していたそのうちの一つが、現在の糸満市福地にあった福地小飛行場である。福地小飛行場については、他の多くの小飛行場と同様に不明な点が多い。

 

 

字民が約 1 年ぶりに福地に戻ると、前の山には木も草もなくて真っ白で、家屋も全部なくなっていた。 ... 8 月末まで山城に潜伏していた元日本兵によると、 8 月ごろに喜屋武から山城にかけて米軍砲兵部隊が宿営し、観測機用の飛行場を造っていたという。米軍が引き揚げた後に字民が耕して畑に戻したが、固く整地されていたためにかなり苦労していた。部落内の屋敷や畑で収集された遺骨は、部落西側のテージカと呼ばれる石で囲まれた場所の山地に入れていた。福地の一帯では、避難民の戦没者も多く、那覇や中頭辺たりから多くの遺族が遺骨を探しにやってきた。

糸満市史』糸満市役所, 1982、773 ページ

 

米軍は滑走路の整地に石灰と珊瑚を砕いて固く大型ローラーで敷き詰めるため、収容所から帰村を許された住民が、米軍がそのままにした滑走路を元のとおりの農地にもどすのに難渋するということが多々おこっている。本部半島の備瀬ふくぎ並木の東側に作られたビーズリー飛行場、また、未だに原状回復されないままの本部補助飛行場跡などの例がある。

 

この場所は現在は一面が農地となっているが、現在でも農地から当時のサンゴが出てくるという話である。 

 

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■