日本陸軍「伊江島飛行場」
日本軍が沖縄に建設した15の飛行場
1943年 - 日本陸軍 伊江島飛行場の建設開始
「不沈空母」構想
1942年6月のミッドウェー海戦において惨敗した日本軍は、多くの航空母艦や航空機を喪失し、以後の戦況を立て直すことができなかった。そのため大本営は戦艦空母の代わりとして南西諸島に多数の飛行場を建設し、地上から航空作戦を展開するという「不沈空母」構想をうちたてた。
沖縄においては15カ所の飛行場建設計画が進められた。なかでも伊江島飛行場計画は、当時「東洋一の飛行場」と称され、伊江島の
- 東飛行場に3本の滑走路、
- 中飛行場に2本の滑走路、そして
- 西飛行場
という、壮大な飛行場建設計画であった。
1943年、日本軍は伊江島の土地を飛行場建設用地として強制接収し、春頃から陸軍航空本部による飛行場の建設に着工した。建設は国場組が請け負った。途方もない大規模飛行場計画でありながら「資材と労働力の不足が重なって」*1工事は遅々として進まず、1944年9月ごろにようやく完成のめどがたつ。10月10日の空襲で破壊されるも、「昼夜兼行」で修復する。
1944年 - 十・十空襲と米軍のターゲットマップ
1944年10月10日、米軍は沖縄を広範囲に空爆する (十・十空襲) 。その目的の一つは、精密なターゲットマップを作成するために必要な空中写真の撮影であった。
【米陸軍公刊戦史から和訳】敵と沖縄本島に関するアメリカの諜報は、多くの困難に直面して、何ヶ月にもわたってゆっくりと習得された。沖縄は日本人によって世界から隔離されていたため、この帝国の戦略的内部防衛線に関する軍事的価値の情報は不足しており、入手するのは困難だった。限られた基本的な情報は、❶ 太平洋の島の戦場で捕らえられた捕虜と文書 *2、琉球の ➋ 元居住者の尋問、そして ➌ 古い日本の出版物から得られた。データの大部分は、➍ 航空写真による偵察によって取得された。ただし、これは、特に地形の調査や敵の強さや活動の推定には、しばしば不完全で不十分だった。アメリカの空軍基地からの目標の距離(1,200海里)にはB-29と空母艦載機の使用が必要であり、前者は高高度で小規模なカバレッジしか提供できないが、後者は空母攻撃の日程に依存するしかない状況である。関係する比較的大きな陸地と雲のひろがりは、地形と設備の詳細な研究に必要な大規模な写真を取得することの難しさを増大させた。
アメリカの諜報機関によって作成されたターゲットマップは、島の地形と開発された施設について知られているすべてを表していた。この地図、縮尺1:25,000は、1944年9月29日と10月10日 (十・十空襲) に取得された航空写真に基づいており、1945年3月1日頃に配布された。描写、および首里の北の高地の部分を含む地図の特定の部分は、地形の詳細が不十分あるいは皆無であった。島の追加の写真は、1945年1月3日と22日、2月28日、および3月1日に取得された。1月22日のそれは、予定された上陸海岸エリアの情報に優れたものであった。航空写真を補足するため、真珠湾から ❺ 潜水艦が送られ、沖縄のすべてのビーチの写真を撮った。
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 1]
1944年9月29日の空中写真。このような空中写真を米陸軍の解析班が解析し、
米軍が空撮した伊江島飛行場
詳細なターゲットマップを作った。
1944年12月23日に作成されたターゲットマップ。
Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6
1945年3月10日 - 飛行場「自壊」命令
3月「完成」と同時に、一転「自壊」命令。
特設警備工兵隊はしばしば空襲に襲われながら壕掘りや弾痕補修に従事して、沖縄戦直前の3月上旬までには東・中・西の3飛行場を完成させたが、作戦変更に伴い破壊された。沖縄攻略作戦を開始した米軍が、伊江島に大規模な上陸作戦を開始したのは4月16日で、1週間後、守備隊はほぼ全滅した。
沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書」平成16年3月、p. 36
1944年11月時点での日本海軍の資料 *3 によると、日本軍は伊江島に「中飛行場」2本と「東飛行場」1本を建設している。東飛行場の1本は「未着手」もう1本は「一時中止」とある。下に示す米軍の空中写真 (1945年1月) では、中飛行場のさらに西側に、並行してうっすらと滑走路の枠のようなものが見える。1月の段階では「西飛行場」はほとんど手が付けられていない状態であったと考えられる。
上: 第三航空艦隊司令部1949年11月作成「南西諸島航空基地一覧図」(防衛研究所所蔵)
下: 米軍による1945年1月3日の伊江島上空からの空中写真
昼夜を徹し、3月上旬までに東・中・西の3飛行場を「完成」させ、3月10日に自壊命令が許可されたことになっているが、それは日本流「建前」で、実際には、11月の海軍資料から進展がないまま自壊したということが、3月20日の米軍空中写真からわかる。西飛行場もほとんど形になっていない。東と中の3本の滑走路のままである。
3月10日、昼夜兼行で完成に向けて防衛隊や住民を使役した軍は、今度は一転して、飛行場の「自壊」を命ずる。いったい現場ではどんな混乱を引き起こしただろうか。米軍の3月20日の空中写真は、その「自壊」の跡も上空から記録している。
米国海軍: Bomb-scarred airfield on Ie Shima in the Ryukyus. Note furrows across runways dug by Jap prior to abandoning field.
爆撃の痕が残る伊江島飛行場。日本軍が同飛行場を放棄する前に掘った溝が、滑走路一面に見える点に注目。伊江島 1945年3月20日
伊江島は沖縄本島北部の本部半島から西5キロの海上に浮かぶ円盤状の島である。この島に日本軍は東洋一を誇る航空基地を建設していた。工事は昭和18年ころから始まり、島の住民はもとより北部全域の労働力を徴用して昼夜兼行で進められたが、ショベルや鍬などの原始的な工具に頼る工事は長期間を要し、ようやく飛行場らしい体裁がととのうのは米軍上陸の1ヵ月ほど前だった。しかし、せっかく完成した飛行場もほとんど使用されぬまま日本軍みずからの手で破壊されねばならなかった。敵上陸を目前にひかえた沖縄ではもはや航空基地としての役割はなくなり、劣勢の守備軍ではこれを確保することが困難だからである。
滑走路は破壊したが、これが米軍によって修復され本土侵攻の航空基地に利用されるおそれはのこっていた。そこで、国頭支隊から伊江島守備隊約2700名が派遣され、城山を中心に堅固な陣地を構えた。守備隊のなかには正規兵のほかに約1200名の防衛召集兵と伊江島防衛隊、青年義勇隊、女子救護班、婦人協力隊など島の住民が数百名も参加していた。
1945年4月16日 - 伊江島の戦闘
米軍は基地のある島を選び攻撃した。
米国海兵隊【原文】 One of the best weapons yet devised to flush the little men out of their caves. This photo, taken at Ie Shima, shows a Marine shooting the searing blast of the flame thrower into a cave that is hidden by the underbrush. This is just one of the many weapons used to root out the Japs from their caves by Marine Air Group 22's ground troops.
【和訳】 これは洞窟から日本兵を追い出すのに最も有効な新型兵器のひとつ。伊江島で撮影されたこの写真は、薮で覆い隠された洞窟の中に火力の強い火炎放射器を発射している海兵隊員を捉えている。第22海兵隊航空群の地上部隊が、壕の日本兵を根こそぎにするのに用いた多数の武器のひとつ。1945年6月
このように「根こそぎ」にされたのは、「日本兵」だけではない。伊江島の戦闘では、島に残っていた住民の半数と大半の兵士が命を奪われる。基地は島を守るのではなく、島を攻撃の対象にさせた。幸いにも生き残ることができた住民は、いったん島の収容所に集められ、5月には渡嘉敷島や大浦崎の民間人収容所へ移送された。しかしそれで伊江島の戦争が終わったわけではなかった。*4。
米軍「伊江島補助飛行場」
1945年 - 米軍「伊江島補助飛行場」の建設
住民を収容所に移送し、米軍は日本軍が建設した飛行場を土台に伊江島の基地化を24時間体制で続行した。米軍は伊江島を沖縄戦の後の本土攻略の拠点の一つとみなし、また基地建設のための良質な石灰岩を採掘する採掘所としても利用した *5。
1945年8月末日、沖縄戦終結時に作成された米軍の機密地図では、米軍が日本軍の飛行場 (縞線) を手直しする形で、中と東の滑走路を使用 (黒線) しているのがわかる。当初の計画では、さらに西側に白線が引かれているが、米軍はさらに新規の滑走路を計画していたのかもしれない。終戦後も、朝鮮戦争が始まると、米軍は1955年3月にも土地の強制接収を行った。
現在の「日本陸軍 伊江島飛行場」
米軍は、日本軍が建設し自壊した伊江島の「西・中・東」飛行場を接収し拡張する形で米軍の伊江島補助飛行場を建設した。下記の2001年の空中写真では、およその旧日本軍の「伊江島飛行場」跡を青で、また現在の米軍基地区域を赤で指し示している。
米軍は、日本軍の伊江島の「西飛行場」を完全に整備し使用、また「中飛行場」を大幅に拡張している。「東飛行場」跡地は、1977年に海洋博覧会関連飛行場用地として約6,000㎡が返還された。
伊江島「東飛行場」
旧日本軍伊江島東飛行場は、1975年に海洋博覧会関連飛行場用地として返還され「伊江島空港」が建設された。半年間飛行場として運営されたが、米軍の訓練空域が広く、また利用客も少ないために運営されていない*6。
伊江島「中飛行場」
旧日本軍伊江島中飛行場は伊江島補助飛行場として拡張されたが、現在飛行場としての利用はされないまま放置されている。「飛行場跡地」として入ることができるが、いまも米軍の管理下におかれたまま返還されていない。滑走路はガタガタ道となり、また周辺は黙認農耕地となっている。
伊江島「西飛行場」
旧日本軍が計画しながら未完のままだった伊江島西飛行場跡地は、現在の米軍「伊江島補助飛行場」として米軍機が離発着を繰り返している。また、さらに西側には、1989年に「ハリアーパット」が、2018年には「LHDデッキ」が増設された。ゆえに、上空から滑走路が4本に増えたことが確認できるだろう。
住民は、SACO によって押しつけられたパラシュート降下訓練だけではなく、新設された LHDデッキがひきおこすオスプレイやF35戦闘機の途方もない騒音に悩まされている。
伊江島について、歴史を知らなければ、基地のなかに耕作地があることを疑問に思う人がいるかもしれない。しかし、最も問われなければならないのは、長く土地を使用しない状態にあっても未だ返却しない、という在沖米軍のありかたである。そのアティチュードの根底にあるものは何なのか、私たちはちゃんと考えなければならない。
基地の中に家があると言われるが、違う。
家がある所を強制的に接収されたんです。
「中を撮ってもいいんですか?」村職員も知らなかった“ボーダーレス”な島、沖縄の縮図に | ボーダーレス 伊江島の78年 | 沖縄タイムス
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*1:沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書」平成16年3月」p. 33
*2:米軍は南方で日本兵が軍用手帳に記した個人的な「日記」からも多くの情報を得ていた。米軍語学班は日本軍が兵士に日記をつけるなという基本的な諜報対策もしていないことに驚く。米軍では家族への手紙は許されているが兵士に日記をつけることは諜報保持のために禁止していたのだが、こうした情報管理の基本もできていないまま、一方では日本軍は沖縄で沖縄人のスパイ狩りに血眼になっていた訳である。
*3:第三航空艦隊司令部1949年11月作成「南西諸島航空基地一覧図」防衛研究所所蔵
*5:米軍は上陸前から伊江島や本部半島の石灰岩の採掘所 (quarry) に注目していた。See. Okinawa Gunto cincpac-cincpoa bulletin 161-44 15 November 1944, p. 54.