第32軍司令部壕 (首里)

沖縄にあった日本軍の司令部壕

陸軍 第32軍司令部壕    

海軍 海軍司令部壕    

  • 小禄の司令部壕    1945年6月13日陥落

 

 

第32軍司の創設

1944年3月22日 第32軍の創設

1944年3月22日。大本営は第32軍 (沖縄守備軍)を創設した。それは米軍が沖縄上陸前の組織的な爆撃を沖縄全域で開始する1年と1日前のことである。

 

沖縄本島を中心とした南西諸島における航空基地の守備を主任務とする第32軍が新設されたのは昭和19年 (1944年) 3月22日付けの大本営命令による。海軍も陸軍の動向に呼応して沖縄方面根拠地隊と第4海上護衛隊を編成した。

 

1944年4月22日 津嘉山司令部壕の構築開始

1944年12月3日 第32軍司令部、軍司令部の首里変更を決定。

 

十・十空襲で地盤が脆いことが問題となり、首里に司令部壕を移すことに決定。

 

 

首里司令部壕と沖縄戦

1944年12月9日 首里城地下に司令部壕構築を開始。

1945年3月23日 第32軍司令部が首里の地下令部壕に移る*1

 

「南西諸島防衛のため」沖縄に配備された日本軍32軍は、沖縄戦直前の44年12月から、当時国宝だった首里城地下に司令部壕の構築を始めた。壕の構築には近隣の沖縄師範学校や県立第一中学校の生徒らも駆り出された。10代の少年たちは、蒸し暑い地下で24時間体制の壕堀り作業に従事した。

戦火の首里城 - 未来に残す 戦争の記憶 - Yahoo! JAPAN

 

1945年5月27日 首里から撤退、津嘉山を経由し南部へ。

 

 

米軍による首里司令部壕調査

米国陸軍通信隊【原文】Headquarters room of Jap 32nd army in Shuri Castle on Okinawa, which was found to be completely tunneled. / 【和訳】完全にトンネル化されていることが判明した首里城地下の日本軍第32司令部室。撮影日 1945年7月6日     

 

首里の地下壕

首里城の地下を横断した司令部壕。

第32軍司令部壕は、アメリカ軍が上陸する4か月前の昭和19年12月から首里城の地下に突貫工事で作られた。全長は1キロ余りで、首里城の地下約30メートルを南北に縦断するように掘られている。 

首里城の地下に眠る戦跡 旧日本軍司令部壕|沖縄の戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK

 

3D グラフィックで再現する首里司令部壕の内部。

沖縄県では今、かつて沖縄戦で旧日本軍が首里城の地下に掘った壕「第32軍司令部壕(32軍壕)」の保存・公開について検討を薦めています。なぜ保存公開が必要なのか、沖縄タイムスは今回、壕の歴史と現状に向き合う連載「継ぐ32軍壕」に合わせて、壕の構造を3Dグラフィックで再現する特設サイト「知る32軍壕」を公開しました。

首里城地下の旧日本軍司令部壕を3Dコンテンツ化 | 沖縄タイムス社

沖縄本土復帰50周年 知る32軍壕 | 沖縄タイムス

 

首里司令部壕 第5坑口

沖縄タイムス 2022年2月1日

旧日本軍は長嶺さんの私有地を、どうして使うことになったのか気になった。戦時のどさくさに紛れ、地主の同意が曖昧なまま占有した可能性もある。
壕を知る糸口は少なく土地が軍に使われた経緯をつかむ手掛かりは、乏しかった。沖縄戦時、長嶺さんは7歳。首里に住んでいたが、壕の記憶はない。父はブーゲンビル島で戦死し、自宅に壕の資料は何も残されていなかったという。

終戦直後に壕や第5坑口がどんな状態だったのかも分からず。長嶺さんは糸満に逃げて助かった後、首里へ戻ったが、壕を話題にする住民は誰もいなかった。

 長嶺さんが壕の存在に気づいたのは20歳を過ぎてから。知り合いから自分が雑木林の所有者だと知らされ、林に入って入り口を見つけた。その後、調査した那覇市から司令部壕だと教えられ、驚いたという。

 近くに60年以上住む古老の男性(85)にも聞いた。「戦後15年くらいたってから壕の上の道路が割れ、落盤が相次いだ。おかしいなとは思ったが、まさか下に壕があるなんて思わないよ」大きすぎた沖縄戦の被害 研究に時間

 壕の保存公開を求める会の瀬名波榮喜会長(93)から「司令部壕の場所は機密情報で、近隣住民も知らなかった」と聞き、合点した。「甚大な被害があった沖縄戦の研究は時間がかかった。第32軍司令部壕の把握にも、相当時間を要したはずだ」と。謎が多いのは、沖縄戦の被害が大きすぎた故なのだ。

 1960年ごろになると、観光開発などのため、壕の調査が繰り返された。58年から68年まで5回も実施したが、壕内の落盤などから、保存公開は前進しなかった。 

 72年の日本復帰後も、上の首里城は復元事業が進んだが、第32軍司令部壕は目立った動きはなかった。「だんだんと忘れられた存在」(長嶺さん)になっていったが、長嶺さんは保存公開の可能性があるとみて、土地を持ち続けてきたという。

 壕は沖縄戦を指揮した日本軍の中枢が拠点を置いた重要な戦跡だ。歴史の検証や平和教育にも生かせるはず。77年も放置され続けてきたのはどこか納得できない。

「まさか下に日本軍の壕があるなんて」首里城近くに唯一残る出入り口 [沖縄はいま]:朝日新聞

1992年6月25日 琉球新報
〈司令部と女性/用済めば見捨てられ/激戦地さまよう
 野原広信さん(六三)は「朝鮮ピー」と呼ばれていた女性らが一升ビンに詰まった玄米を棒でつついている姿を目撃している。「ピー」と言ってからかう日本兵にくってかかる女性を見た人もいる。
 連日連夜の司令部壕掘り作業でへとへとになっている野原さんらに彼女らは「仕事、ゆっくりしなさい」と優しく声をかけた。中には、かまぼこの缶詰を差し出した女性もいた。
 「郷里にいる弟を思い出したのだろうか。とてもありがたくて、四、五人で分けて大事に食べた。あの時の親切が忘れられない」
 一方、諸見守康さん(六三)は辻町の女性たちが参謀らの部屋にいるという話を聞いたことがある。「時々見かけた。香水のにおいがして、もんぺ姿ではあったがきれいな服を着ていた。戦争中にこんなきれいな人が…」と驚いた。
 蒸し暑い壕内。「昼食時に中将の周りに女性が集まり、扇をあおいでいた」と上原誠徳さん(六三)は証言する。「兵は住民を守るはずなのに、自分の島は自分で守れと言って日本兵は沖縄人をばかにしていた」。軍の指揮官の姿を見て、怒りがこみ上げてきた。
 渡久山朝章さん(六三)は、ふんどし姿の兵隊たちの横で、シャベルを使って土をすくう女性数人の姿を見てぼう然とした。奈良県から来たという女性もいた。兵隊に体に触れられ、好色な視線とひわいな言葉にさらされながらも、無口で重労働に耐えていたという。
 三二軍司令部の「日々命令綴」の壕内の配置図に「女雇用人」と記された場所がある。この文書には「女子雇用人入浴時間割出表」があり、女性の入浴時間を細かく定めている。米軍作成地図は、第五坑道口から八十五メートル入った地点に女性の部屋があったことを記録。日本人女性十二人。沖縄女性十人と記している。
 いよいよ司令部壕を放棄し本島南部へ移動する晩、高良吉雄さん(六四)は朝鮮人女性に「私のからだをあなたにあげますから、一緒に連れて行って」と声を掛けられた。連れて行くわけにはいかなかったが、その女性の必死の懇願を断りきれなかった。とっさに「七時半ごろ撤退するから」と自分の部隊の撤退時間を偽って、その場を切り抜けた。
 司令部壕放棄後、壕内の朝鮮人女性らの足どりはさだかでない。砲弾にさらされながら、雨でぬかるんだ南部の激戦地をさまよう朝鮮人女性らの姿を野原広信さんらが確認している。(第32軍司令部壕取材班)〉。

「首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕 第9回」1992年6月25日付琉球新報掲載

 

 

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*1:沖縄県文化振興会「第5回 第32軍司令部壕保存・公開検討委員会・文献調査最終報告」 (令和4年3月28日