なぜなに米軍基地 File 1-3 キャンプ・シュワブは、住民が誘致して建設されたの???

 

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それってどうなの? 沖縄の基地の話

Question 1-3 辺野古の基地:キャンプ・シュワブは、住民が誘致して建設された???

 

 ➊ キャンプ・シュワブの建設が決まり、土地の接収が始まったのは、1956年11月です。

 

 その前年、➋ 伊江村・真謝区と現在の ➋ 宜野湾市伊佐区などで、米軍は基地建設のための土地の強制収容を行っています。これは「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる、人が住んでいる家を、強制的に住民を排除した上で、取り壊すという非道なやり方でなされました。

 

 また土地を二束三文の賠償金で取り上げるやり方に反対し、沖縄では、➌ 1956年7月に10万人以上が参加した抗議集会が開かれるなど、「島ぐるみ闘争」と呼ばれる運動が盛り上がっていました。

 

 辺野古区が、キャンプ・シュワブの建設を受け容れたことは事実ですし、それが「島ぐるみ闘争」を挫いたとも広く考えられています。しかし、積極的な誘致をした事実はありません。

 

 ➍ 米軍施政下の沖縄には、日本国憲法も米国憲法も住民の人権を守る上で適用されていなかったことを忘れてはなりません。

 

 ➎ 辺野古区編(当時の久志村)『辺野古誌』には、伊江島や伊佐浜の惨状から、反対しても止められない、ならば基地からより多くの恩恵を受けた方がまし、という判断がなされた事情が書かれています。

 

 インターネット上では ➏「サンキ浄次元米陸軍中佐の手記」というものを根拠に、キャンプ・シュワブやキャンプ・ハンセンは誘致されたとする主張も見かけますが、その手記が実在するのかすら確認できません。

 

また手記の内容とされる当時の旧久志村の議会や首長の米軍当局への基地誘致の陳情等は、確認できる米軍の公文書や、関連する歴史的事実、人々の証言とも矛盾しています。

(佐藤・宮城)

 

 

キャンプ・シュワブ基地建設と土地接収は 1956年11月から。

 

1945年の沖縄戦で米軍は辺野古に巨大な収容所を建てた。大浦崎収容所、それは最も劣悪な状態の収容所のひとつであり、多くの人が収容所で命を落とした。

 

それから11年後、土地接収がはじまった。

 

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【原文】 Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.
【和訳】 米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。
撮影地: 辺野古 撮影日: 1945年 7月 8日

 

沢山の人がこの収容所でなくなったが、米軍はその遺骨回収すら許していない。

 

辺野古、今も放置されたまま調査も許されぬ犠牲者の遺骨の上にさらに軍事基地を作るという醜業

 

ospreyfuanclub.hatenablog.com

 

➋ 「銃剣とブルドーザー」伊江村真謝区と宜野湾市伊佐区で土地の強制収容

 

伊江島の土地闘争

 

伊江島米軍基地と沖縄のガンジー阿波根昌鴻の非暴力闘争 - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」

 米軍に収容された2100名の島民は、他の島に移された後も、本島の今帰仁、本部、石川等を転々とした。そして2年後ようやく島に帰ってきた時には、島の63%が米軍の軍用地となっていた。…

 更に米軍は、伊江島での軍用地拡大を目指した。本格化したのは1953年である。家を焼き払い、ブルドーザーで整地し抵抗するものは投獄するという「強制土地接収」が開始された。「銃剣とブルドーザー」と、呼ばれるものである。…


 1955年3月11日から米軍は300人の武装兵を上陸させ、民家13軒の強制立ち退きを実行した。家に火を放ちブルドーザーで引きならし、それを制止しようとした老人に暴行を加えて拘束した。「この島はアメリカ軍が血を流して、日本軍よりぶんどった島である。君達はイエスでもノーでも立ち退かなければならない。君達には何の権利もない」と米側は言い放った。
 米軍が駐屯してからは飛来した銃弾や爆弾による被害が続出し、土地の補償もうやむやにされはじめた。農民は生活に困窮し演習地内に入って耕作を続け、逮捕者が多数ではじめる。当時の芋かす、ソテツ、お粥等の粗末な食糧では、100人のうち92人が栄養失調となり、ついに餓死者が出た。長嶺キヨさん34歳が、最初の餓死者である。米軍は住人152戸の立ち退きを計画したが、住民の反対闘争によって、この時期いったんは13戸に食い止めることができた。しかしアメリカはこの13戸をブルドーザーで壊して、住民たちをアメリカ軍の古い天幕に押し込んでしまう。

 同年7月、こうして家を奪われた真謝区の住民たちが、有名な「乞食行進(ムンクーチャ)」を始めた。那覇市琉球政府前から出発し、米軍の行為を沖縄(うちな)ぐちを使い、訴えた。「安保条約によって、われわれの土地は取られた。家も仕事も、食べるものもない。どうすればいいか、教えてください」と、那覇から糸満、国頭と1年あまり訴えの行進を続けた。
 これは、報道規制のために米軍の横暴をまったく知らされていなかった沖縄の人々に大きな衝撃を与え、「第一次島ぐるみ闘争」へと発展していく。

 

伊佐土地闘争

 

沖縄公文館にはたくさんの軍用接収された伊佐地区の家屋の写真がある。すべて接収され、取り壊されて基地となった

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写真解説: 軍用接収地 宜野湾伊佐浜 家屋
撮影日: 1955年 7月 琉球政府関係写真資料 043

 

➍ 米軍施政下の沖縄では、日本国憲法も米国憲法も適用されなかった

 

➎ 『辺野古誌』

 

<沖縄基地の虚実15>米軍計画に反対決議 強硬姿勢に窮し再考 - 琉球新報

 2016年5月22日 21:22 

 

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 1950年代後半に基地建設が行われた名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブを巡り、当時の地元自治体・久志村が「自ら誘致した」とする言説がインターネット上などで見られる。実際は、どのような経過をたどったのだろうか。

 

 98年に辺野古区が発行した辺野古誌」によると、55年1月、米軍は久志村に対し「久志岳・辺野古岳一帯の山林野を銃器演習に使用したい」と伝えた。これに地元住民らは敏感に反応した。「軍側の一方的な使用通告に驚いた村では、臨時議会を招集して山依存の高い住民の生活権を守る反対決議」をした。


 当時の地域住民が抱いた不安に関し辺野古誌は、「古くから山を生活の糧にしてきた住民もふってわいたような軍用地接収に騒然」「日々の暮らしにも窮するのでは」などと記録している。

 

 しかし、米側は水面下で地元との交渉を進め、56年12月28日、久志村長と米側は土地使用契約を締結した。


 辺野古誌は次のように記す。「地主側代表の一人も、軍用地接収にあたって当初、地料や条件が悪く反対したが、地元に於いては強制的なものではなく協力的立場で契約した」「契約にあたっても地元が有利に展開したといわれ、シマの経済転換の進展になると喜んだ」。ここでは地元が軍用地接収に伴う補償を求めたことを説明する。


 しかし、水面下の交渉で米側が強権的に推し進めた内実も辺野古誌は明かしている。「民政府は交渉の中で、当初軍用地反対を続けている字に対して、これ以上反対を続行するならば、部落地域も接収地に線引きして強制立ち退き行使も辞さず一切の補償も拒否するなどと強硬に勧告してきたことから住民も一様に驚き、有志会では急変した事態に」「再考せねばならなかった」。米軍の脅しで地元が追い込まれた状況が浮かび上がる。


 米側の勧告を受け、辺野古区側では、宜野湾の伊佐浜で住民が強制的に立ち退かされた“苦い事例”も念頭に議論が進んだ。圧倒的権力をかざして軍用地接収を進める米側に対し、条件付きで容認せざるを得なくなった状況がうかがえる。

 

 辺野古誌では「全地主が賛成したわけでもなく、先祖代々の土地を守るに四原則を支持して軍用地反対に契約を保留する地主もいた」とも述べる。

 

 沖縄の戦後史に詳しい鳥山淳沖縄国際大教授(現代沖縄政治社会研究)はキャンプ・シュワブ建設の経過に関し、「米軍の計画もなく地元から動き始めたものではない。当時、住民の意見を踏まえて米軍が撤回するような関係ではない。支配関係に関する認識が欠落すると、住民が望んでそうしたとすり替えられてしまう」との見方を示す。

 

 鳥山教授は「これらもちゃんと見た上で『誘致』と表現した方がいいのか一人一人が考えないといけない」と述べ、時代背景や経過を踏まえ認識を深める必要性を指摘した。(古堅一樹)

 

➏ 疑惑の「サンキ浄次元米陸軍中佐の手記」による誘致説

 

サンキ中佐の手記らしいものが新聞にもみられたが、ソース (出典) が確認できない以上、史料としては信頼を置くことはできない。今のところ、ネット伝説にとどまる。

 

さらに、どこにあるかも不明なこの手記によると、住民がサンキ中佐のところにやってきたことになっているのは、強制接収の一年後のことである。村の人は強制接収が始まってからサンキ中佐のところに押しかけたという事になる。ゆえに村民が誘致したという根拠にすらならない

 

togetter.com

宮城 康博 - シュワブ誘致説の唯一といっていい根拠になってるのは「サンキ浄次元米陸軍中佐の手記」だが、誘致説を検証す... | Facebook

 

シュワブ誘致説の唯一といっていい根拠になってるのは「サンキ浄次元米陸軍中佐の手記」だが、誘致説を検証する中で私は惠隆之介が著書に引用するそのような手記(The birth of a Marine base.)の存在を確認できなかった、だが今日、過去の沖縄タイムス記事に「ジョーサンキ語学将校の証言」として惠隆之介が引用しているのとほぼ同内容の記事をみてしまった。私としては「それってどうなの?沖縄の基地の話。」に書いたことを再考しなければいけない事態だ。

 

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新聞記事になったその証言の内容には明らかな矛盾がある。

村長がサンキに対して誘致の相談をしてきたのは1956年ころとなっているが、すでに前年の1955年1月に米軍は久志村に山林原野の銃器演習使用を通告、同年7月には現在のシュワブ用地である辺野古崎一帯の新規接収を予告している。さらに、日本本土からの米海兵隊の沖縄移駐方針はすでに公式決定している。56年に久志村からの誘致に海兵隊が応じてシュワブが建設されるというのは歴史的事実の経緯を考えると無理がありすぎる。沖縄タイムス紙上のサンキ語学将校の証言では、それらの歴史的事実については一切触れられていない。


なにゆえに、ジョーサンキ語学将校はこのような、すぐわかるような矛盾に満ちた証言をしたのか。1956年11月には、前年突然降って湧いた米軍の基地用地新規接収予告について協議していた辺野古区の土地委員会の一人の委員が、民政府の依頼を受け極東放送で軍用地接収に賛成意見を発表し、沖縄の島ぐるみ闘争に大きな波紋を投げている。サンキ将校の証言も、島ぐるみ闘争を挫くための米軍宣撫工作の一環としての久志村誘致説だと考えられる。


それほどまでに、島ぐるみ闘争は激烈であり、沖縄の支配者である米軍側も対処に苦慮したということだろう。

沖縄の民衆が歴史の前線に登場したとき、それを挫くために権力側がとったあの手この手のひとつとしてシュワブ誘致説があった。

いままた、それが蒸し返されるのは、同じように沖縄の民衆が歴史の前線に登場していることの証左かもしれない。

 

基本的な歴史の知識すらなく、「支配関係に関する認識が欠落」していると、すぐに「地元住民が望んでそうした」とすり替えられ、拡散される。

 

この国の歴史よりも、

米軍基地に都合のいい宣撫をもとに虚構をたれながすひとたちは、

 

ほんとうに「保守愛国」といえるのでしょうか。

 

 

➐ 「もうこれ以上、辺野古住民をこの問題 (誘致デマ) でくるしめないで、と語る辺野古の重鎮

 

キャンプ・シュワブ辺野古区民が自ら望んで誘致した、と拡散し続けてきた大分県出身の栗秋琢磨に対し、辺野古区の重鎮 I 氏が優しく訴えます。

 

 

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これ以上、辺野古住民をこの「地元誘致デマ」でくるしめないよう。

 

まず歴史を知ることです。