そもそも「デマ」というものは、
たあいもない「嘘」とは若干ちがう。
極めて政治的な動機で発生し、
極めて政治的な動機で消費されていく。
それがデマというものだ。
たとえば、
沖縄で米軍関連の事故がおこると
かならずデマが煽られる。
米軍機からの落下物。三週間連続して、パネルやら、プラスチックやら、しまいに窓までが落ちてきたが、
それで、偽ジャーナリストやらプロ右翼などがこんな古びたデマをまたぞろ持ちだしてくる。ただただ、沖縄の声を封じ込めるためだけの目的で。
普天間第二小学校移転は反基地運動が妨害し、子供たちを人質に使っている、などというものだ。ちょっと調べれば完全なデマであることは周知のことだが、彼らは執念深く、あからさまな政治的意図をもってこのデマを利用する。
悪いのは沖縄だ、
という暗黙のメッセージを込めて。
(例1) ありもしないデマで醜悪なヘイト本を作りだす三文作家、坂東忠信。
(例2) なんだろね西村幸祐、「マスコミ堕落論」などウヨ著作ばかり、だが、堕落しているのはどちらだ?
(例3) 自分のデマが批判されると依田支援タオルが売れるという円環運動の依田デマ。
※補足だが、「サンゴ移植」など、そもそも、ありえない。大浦湾の「サンゴ移植」が可能かどうか、沖縄防衛局ではなく、依田氏が敬愛するサンゴの専門家金城氏にでも聞いてみろ。そんなに簡単に大規模にできるものなのか。幻想ではなく真実をちゃんと見よ ! 「サンゴ移植」が可能なら、サンゴ保全にこれほど苦心することもない。そんなことぐらい誰でも知っていることではないか。
そして人々の無知と無関心の隙間にデマが入りこむ。
だからこそ、もう一度確認しておきたい。
普天間第二小学校移転を妨害したのは、
日本政府だということを。
「反基地運動のために市民団体が普天間第二小学校の移転を意図的に妨害して、子どもたちを人質にした」。世界一危険な米軍普天間飛行場(宜野湾市)に隣接する第二小をめぐり、インターネット上でこんな話が流布されている。普天間飛行場の危険性の象徴として、市民団体が第二小を移転させずに反基地運動に利用しているという趣旨だ。同校は1980年から10年以上も移転問題に揺れた。なぜ、学校は動かなかったのか-。
この「人質論」は、基地問題に対する沖縄の市民運動に批判的なブログやフェイスブックなどSNSで拡散。普天間飛行場は街のど真ん中にあり、周辺には住宅や学校、病院が密集するが、これらについてネット上では「『世界一危険な基地』は、学校を移転させずに危険をとどめようとする左翼のでっちあげだ」などのコメントが躍る。
ネットで引用されているのは当時の保守系市長、安次富盛信氏や「市関係者」らへの取材をもとにした2010年のある全国紙の報道だ。(註・産経新聞のことだよ爆笑) *1
報道によると、第二小はこれまで82年の米軍ヘリ墜落事故をきっかけに2度移転計画が持ち上がった。安次富氏が米軍と交渉し、キャンプ瑞慶覧の一部を学校用地として返還させることで合意し、予算も確保した。だが、市民団体が「移転は基地の固定化につながる」「命をはってでも反対する」などと抵抗したため、計画が頓挫したという。
「こんな話は、聞いたことがない」。(註・当事者たちが聞いたことのない話を紡ぎあげる産経新聞の宮本雅史) 教育次長や企画部長などで同問題にかかわり、のちに宜野湾市長を務めた比嘉盛光さん(77)は首をかしげる。報道内容とは逆に、予算の補助を国に求めたが、最後までかなわなかったからだ。
第二小は普天間小学校の過密化を解消するため69年、普天間小敷地内に暫定的に設置。翌70年、普天間飛行場に隣接し、滑走路延長上にある現在の場所に一部校舎が完成した。だが、文部省(当時)基準の4割にも満たない狭い敷地だったため、市は70年代から普天間飛行場の一部を返還させて敷地の拡張を模索する。79年には山口県岩国基地や、返還予定だった北谷町のハンビー飛行場から米軍ヘリなどが普天間飛行場に移駐。第二小の騒音は悪化し、教育環境の改善は、さらに急務となる。
80年9月25日。安次富氏は、ある方針を打ち出す。
「騒音で中断を余儀なくされ、適正な教育活動もできない。移転することが得策だ」。第二小の移転先として普天間飛行場と500メートルほど離れたキャンプ瑞慶覧の一部(現在の西普天間住宅地区)返還を求め、那覇防衛施設局(当時)へ要請書を出した。
わずか1週間後の10月2日、滑走路で離着陸訓練中のOV10ブロンコが墜落。第二小移転の機運はさらに高まった。
安次富盛信宜野湾市長(当時)のもと、1980年に浮上した米軍普天間飛行場に隣接する普天間第二小の移転計画。安次富氏は移転先を確保するため、キャンプ瑞慶覧の一部返還を米側と水面下で交渉していたが難問が待ち構えていた。
「用地、造成費の捻出に大変苦慮している。特段のご配慮方よろしくお願いします」
安次富氏は83年7月21日、防衛施設庁に補助を求めた。小学校を新たに建てる用地の取得費が当時試算で25億円に上り、市の財政規模では捻出が困難だったからだ。だが、国は「用地費の補助は制度にない」と型通りの対応だった。(註・なんだよこれ ! )
補助の見通しが立たない中、84年12月8日、那覇防衛施設局を通じ、安次富氏のもとに米側が一部返還に応じる“吉報”が届く。ただ、五つの条件が付されていた。中でも難題となったのが第4項だった。
「現在の第二小敷地およびすべての建物を、普天間飛行場として合衆国政府に提供することに応じること」
キャンプ瑞慶覧の一部を学校の用地として返還する代わりに、いま第二小がある敷地を普天間飛行場に編入する。つまり、市民の土地を新たに基地へ差し出すというものだった。(註・はあ?)
当時は西銘順治知事が普天間飛行場などの整理縮小を訴えていた時代。安次富氏は返還への条件があったことや、その対応を公表しないまま、3選を目指した85年7月の市長選で、革新の桃原正賢氏に敗れた。
なぜあの時、安次富氏は移転を決断できなかったのか。安次富氏の次男・修氏は当時、國場幸昌衆院議員の秘書を務め、国との調整に奔走していた。修氏は、こう思い起こす。
「施設庁側は、第二小の移転は市長の決断次第だ、と言っていた。ただ、父にとって編入条件の受け入れは、第二小の移転が実現する一方、市民の理解を得られるのか、もろ刃のつるぎの側面があった。世論を見極めていたように思う」
市長就任後、編入条件を知った桃原氏もまた、苦悩する。「基地の整理縮小を求める民意に背くことになる」。86年11月には条件の撤回と、あらためて用地取得のための補助金交付を那覇防衛施設局へ要求した。
めどが立たない25億円の用地取得費に、容認しがたい現有地の基地への編入。国との交渉は長引く。88年11月。桃原氏はPTAからの移転要請を受け、強い決意を胸に与党議員や教育委員会とともに上京、関係省庁へ用地費の補助と、編入条件の撤回を要求した。
「広大な米軍基地を抱える自治体への思いやりは国として必要ではないか」「基地の整理縮小は県民の要望。跡地が軍用地になるのは世論に背を向ける」
それでも、基地を抱える街の訴えは届かなかった。
移転計画の浮上から12年がたった92年。これまで移転要請を重ねてきた第二小PTAが、断念を決意する。
1992年9月19日付の沖縄タイムス朝刊の見出しだ。米軍普天間飛行場に隣接する普天間第二小のPTAが18日に開いた臨時総会。これまで宜野湾市に毎年のように求めてきた校舎移転を断念し、現在地での建て替えを求めることを決めた。
なぜ、苦渋の決断をしなければならなかったのか。建築から20年以上たち校舎は老朽化。建設費の高率補助が適用される復帰特別措置法の期限が2年後に迫り、キャンプ瑞慶覧の一部を返還させて移転するのか、現在地で建て替えるのか、決断を迫られていた。
たとえ移転を選択しても、学校用地費は計画当初の25億円から50~60億円に高騰。市が要求してきた国の補助は認められず、移転はいつになるか分からない-。
PTAの決議を受け、第二小は現在の場所で増改築され、96年に新校舎が完成した。
当時、校長の比嘉岳雄さん(81)は「天井のコンクリートがはげ落ちて落下する。鉄筋はむき出し。私たちにできることは、老朽化による危険から子どもたちを守ること。米軍基地からの危険を取り払うのは政治にしかできなかった」と振り返る。
比嘉さんは新校舎落成記念誌に、沖縄に米軍基地が集中している現状を踏まえ、国から用地費の補助が出なかったことに、こう記している。
「当時の関係省庁は沖縄の実情を全く組み入れず、全国共通メニューで操作していて、政治的配慮に欠けていたと思う」
さらに、学校を移転しても米軍基地の整理縮小、市全体の危険性にはどう向き合うのか。移転計画は基地あるがゆえの問題に阻まれた。
一般質問で第二小問題を取り上げていた革新系元市議の上江洲安儀さん(80)は「第二小が移転するということは普天間飛行場が存在し続け、市に危険がそのまま残るということだ。近くにはほかの学校もあり、第二小を移転したとしても、根本的な解決につながらない。普天間飛行場こそ撤去するべきだった」と指摘する。
報道は、歴史的背景や経緯が不明なままネット上で拡散し、オスプレイや辺野古新基地建設の反対運動への批判を誘導している。
沖縄国際大学の佐藤学教授(政治学)は「報道を利用した反対運動への批判は、沖縄への米軍基地の集中を正当化したい心理があり、沖縄をおとしめて、罪悪感を拭いたいという気持ちがある」と指摘。その上で、「若者がネット上の虚偽の言説を受け入れてしまうのはなぜかも考える必要がある」として、歴史の知識の欠如に警鐘を鳴らした。
この「普天間第二小学校移転を妨害したのは基地反対派」というデマは、米軍基地の沖縄集中を是認し、悪いのは基地のまわりに住む沖縄県民、だとか、反基地運動の暴力性、といったイメージを醸造する。
デマを作りだしたのは産経新聞、
この男、今もニュース女子でデマを拡散中。
だが、
こんなデマが否定しても否定しても出てくる背景には、もうひとつ、情報を受容する側の人間の心理も働いている。より自分にとって都合のいい、抵抗のない情報のほうを無意識的に選んでしまうのだ。
沖縄デマの拡散要因は、デマを受容する側にもある。
「沖縄問題は、沖縄の人たちが招いているわけであって、自分たちは悪くない、自分たちは関係ない」と思いこみたい、そんな本土の人間心理が働いているわけだ。
*1:
デマ元となっている現在は削除された産経新聞の記事を下に掲載する。
産経新聞『反対運動優先か 基地隣接の小学校移転』
普天間第二小は、昭和44年に普天間小から分離。南側グラウンドが同飛行場とフェンス越しに接しているため、基地の危険性の象徴的存在といわれてきた。
移転計画が持ち上がったのは昭和57年ごろ。同小から約200メートル離れた基地内で米軍ヘリが不時着、炎上したのがきっかけだった。
当時、宜野湾市長だった安次富(あしとみ)盛信さん(79)によると、それまでも爆音被害に悩まされていたが、炎上事故を受け、小学校に米軍機が墜落しかねないとの不安が広がり、移転を望む声が地域の人たちから沸き上がったという。
安次富さんらは移転先を探したが確保できなかったため米軍と交渉。約1キロ離れた米軍家族用の軍用地のうち8千坪を校舎用に日本に返還することで合意。防衛施設庁とも協議して移設予算も確保した。
ところが、市民団体などから「移転は基地の固定化につながる」などと抗議が殺到した。安次富さんは「爆音公害から少しでも遠ざけ危険性も除去したい」と説明したが、市民団体などは「命をはってでも反対する」と抵抗したため、計画は頓挫したという。
同市関係者は「市民団体などは基地反対運動をするために小学校を盾にし、子供たちを人質にした」と説明している。
その後、昭和63年から平成元年にかけ、校舎の老朽化で天井などのコンクリート片が落下して児童に当たる危険性が出たため、基地から離れた場所に学校を移転させる意見が住民から再び持ち上がった。だが、やはり市民団体などに「移転せずに現在の場所で改築すべきだ」と反対され、移転構想はストップした。
当時市議だった安次富修前衆院議員(53)は「反対派は基地の危険性を訴えていたのだから真っ先に移転を考えるべきだったが、基地と隣り合わせでもいいということだった」と話す。別の市関係者も「多くの市民は基地の危険性除去のために真剣に基地移設を訴えたが、基地反対派の一部には、米軍の存在意義や県民の思いを無視し、普天間飛行場と子供たちを反米のイデオロギー闘争に利用している可能性も否定できない」と指摘している。"