FAC6049 泡瀬倉庫地区 (Awase Storage Area) ~ 沖縄返還協定で無難な名前に名称変更された「黒塗り」の米軍基地

 

住宅地に隣接する弾薬庫

かつて、住宅地の中に弾薬庫があった。

 

米軍基地 FAC6049 泡瀬倉庫地区は1973年に返還された基地。

飛び地のように北中城村に位置した。下の地図では緑色に塗られた場所。

 

名前からすると、単なる倉庫のような無難な名称だが、しかし、それは沖縄返還協定における名称変更によるものであり、もともとは「無難」とは程遠いものだ。

 

1970年までの空中写真では、この場所は常に黒塗りされていた。

1970年の空中写真。黒塗りされているということは、それが普通の基地ではないことを意味する。つまり、ミサイルサイトか、弾薬庫か、そういうものだ。

 

しかしこんな住宅地に隣接する場所に弾薬庫を置くだろうか、と、あなたは思うだろう。

 

いや、住宅地に囲まれようが、住宅密集地だろうが、核ミサイルサイトや弾薬庫を平気で設置するのが、沖縄の米軍だった。

 

ここ「泡瀬倉庫地区」は、「泡瀬弾薬庫地区」(Awase Ammunition Storage Annex) とよばれ、 覆土式の弾薬庫があった。

 

米陸軍は、飛び地のようにはなれたこの場所に弾薬庫を設置していた。

沖縄県「米軍基地環境カルテ・泡瀬倉庫地区」より加工

 

米軍は、どうやら、陸軍の官舎が並ぶキャンプ瑞慶覧バックナー地区の中、にではなく、基地の外の、住民がくらす住宅地地域に隣接した場所に、危険な弾薬を保管するようだ。近隣には空軍の東洋一の規模を誇る嘉手納弾薬庫があるにもかかわらず。

 

いったいどんな弾薬かここに収容されていたのか。陸軍は、ナイキ・ハーキュリーズやホーク・ミサイル以外に、アトミック・キャノンを普天間基地に、小型核兵器をキャンプ・ハーディーなどで訓練していた。こうした危険極まりない核兵器はいったいどこに収容されていたのだろうか。

まだまだ明らかになっていないことばかりである。

 

なぜ日本政府は名称変更したのか

また、さらにもう一つ不可解なこととして、それまで「泡瀬弾薬庫地区」(Awase Ammunition Storage Annex) とよばれた米軍基地が、なぜ沖縄返還協定で、わざわざ「倉庫地区」に名称変更されたのだろうか、ということだ。

 

大陸間弾道ミサイルの開発により、従来のナイキやホークなどの核弾頭ミサイルが時代遅れであることが明らかとなっていた70年ごろには、これらの中身はすでに遊休化し、地下の倉庫に収容されたままになっていたかもしれない。しかし、これらの倉庫は空っぽにはなっていなかっただろう。

米軍が黒塗りし忘れたと思われる1970年の泡瀬弾薬庫地区の画像 (MOK701-C5-5) には覆土型の弾薬庫の様子がはっきりと映っている。周辺の人家と隣接していることがよくわかる。あまりに人々の暮らしを無視した占領統治だ。

 

その泡瀬弾薬庫地区を、1972年の沖縄返還協定では、「泡瀬倉庫地区」に名称変更する。どのような理由で日本政府はわざわざ名称変更する必要があったのだろうか。

この弾薬庫を表面的にしたくない何らかの理由があったのではないか。

 

泡瀬弾薬庫地区の跡地

1972年5月15日、施政権移行とともに、日本政府は「泡瀬弾薬庫」を「泡瀬倉庫地区」として名称変更し米軍に提供。

1973年6月30日、約 129,500 ㎡ が全返還される。

 

覆土式の地下の弾薬庫は日本の税金で解体、クリーンアップされ、各種公共施設が建設された。弾薬庫が並んだ道は「サングリーン道路」と名称を変え、村立幼稚園はさすがに移転されたようである。

返還跡地には村立幼稚園(現在は移転)、村立中央公民館、商工研修施設、社会福祉センターなどの公共施設が整備されている。 

沖縄県「米軍基地環境カルテ・泡瀬倉庫地区」

 

 

過去の負の遺産である米軍基地を跡形もなく破砕していき開発することは、それ自体、悪いことではないが、しっかりと調査し記録を残さなければ、歴史すら、なかったことになってしまうだろう。

 

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